あなたは快適な読書のためにいくらお金を払うことができるだろうか。本の読める店「fuzkue」(フヅクエ/初台、下北沢)では、来店客は平均して2000円前後を払う。高いと思う人もいるだろう。しかし、そこには読書に最適化されたすばらしい環境があると言われたらどうだろう。fuzkueの最大の特長は、思う存分、気兼ねなく、静かな環境で本を読めること。それを可能にしたのは、徹底した仕組み化だ。たとえば、独自の席料制が採られており、席料はドリンクやフードなどのオーダー内容に応じて増減する。そのほか、会話や写真撮影、パソコンやペンの使用に関するお願い事などもある。それらは、来店時に手渡される小冊子のような「案内書きとメニュー」にこまかく記載されている。店主の阿久津隆さんはなぜこれほど個性的なお店をつくったのか。そこには読書する場所がない、という自身の経験があった。
本の読める場所を探しながら、“読書”をいま一度考え直す
――fuzkueというお店をはじめるきっかけが、快適に読書できる場所がないというご自身の経験からでした。
fukzueを始める前は岡山でカフェを経営していて、仕事が終わったあとや休日に、いろいろな場所に本を読みに行っていました。でも、思う存分に気持ちよく本の読める場所はなかなかなかったんです。
――著書『本の読める場所を求めて』でくわしく書かれていますが、ブックカフェや喫茶店、図書館など、本の読める場所を求めて、さまざまな場所に足を運んでいますよね。
そうですね。周囲の話し声が気にならないとか、気兼ねなく長居できるとか、いろいろ条件はありますけど、読書に専念できる場所がほとんど見当たらなかった。本の世界に没入している状態ってけっこうデリケートなもので、簡単に現実に引き戻されてしまう。
ブックカフェですら、「本が読めるかもしれない」場所に留まるんですよね。そもそも自ら「ブックカフェ」と名乗るお店はほとんどないし、読書に専念できるとは標ぼうもしていません。メディア側が雑に「ブックカフェ」とレッテルを貼っただけだから、読書したいというこちらの期待は、そもそもお門違いなものなんですよね。
『本の読める場所を求めて』(朝日出版社)
――読書の居場所が与えられてない理由を探る中で、読書そのものについても考察されています。その一つが、読書が有益で立派なものだという前提に対する疑いです。
読書が好きな人にとって、読書はあくまでも趣味であり、喜びだと僕は捉えたいです。「読書は大切で、すべきもの」みたいな特権化に対する違和感は、中学生のころからありました。高校受験をひかえている時期に、国語の勉強だという建前で小説を読んでいたのは、ただ読みたかったからです。でも、好きで読んでいる人たち以外にとって本というのは、読めと言われるもの、解かれるべき問題と関係のあるもの、というふうに見えましたね。
国語という科目が試験にはあるので、読書と勉強はつながりやすいし、権威も与えられやすい。でも、読書が好きな人たちは、必ずしも学びや気づきみたいなものを得るために読んでいるわけではないはずです。まず楽しい、それが根幹にあるはずだと思っています。
――読書の特権的なイメージは、本自体がおしゃれなアイテムとして消費される傾向にもつながっていると思います。そして一部ではそれに対して否定的な意見も出ています。
ぼくは読書がもっと明るくキャッチーなものになったらいいと思っているので、本に対して敬意があれば、乱雑に扱われたりグチャッと放置されたりしないのであれば、どんどんおしゃれなアイテムになったらいいと思います。
だって、自分が好きなものが先細っていくのは見たい光景ではないですよね。本の世界の繁栄、本が好きな人たちのベネフィットに向けての開かれたアクションが必要だと思うので、それに逆行する閉じたアクションには、「それを言って、どんなメリットがあるんだろう」と思いますね。
「本とはかくあるべし……」「読書とは……」みたいなことを言いたい人の気持ちも、多分わかる。僕にもそういう性質がないと言えばおそらく嘘になると思います。読書は一人でするものだし一人になるものでもあるので、その延長線上で、本というのはその世界自体を閉じたものにしたいという気持ちが誘発されやすいジャンルなんじゃないかと思います。
それでも、本を読むことに対していたずらに門戸を狭くしようとする人たちはやっぱり害悪なんじゃないかなと思うので、みんなもっとおおらかな気持ちでいようよと言いたくなりますね(笑)。
――初心者が入りづらくする要因になりがちですよね。
書店のフェアであるとか雑誌の本特集であるとかが読書をはじめたい人に入り口を用意しようとして投げたボールを、読書ガチ勢が遠くから猛ダッシュでやってきて勝手にボールを捕って、「全然わかってない」とか「なかなかわかってるね」とか言ったりする。それって自分を「わかっている側の人間」に置かないとできない発言で、ただのひけらかしだし、傲慢で高圧的だなと思います。
これから本を読みたいという人たちに「すみません、全然詳しくないんですけど……」と委縮したエクスキューズをさせてしまう。「どうぞいらっしゃい、ここは楽しいぞ」でいいはずなのに、なんで最初にまず萎縮させるんだっていう。そんなの誰も得しないはずです。マウントを取る人たちの小さい自尊心は満たされるかもしれないけど。
――初心者に対するガイドとして機能する専門家と、ただのひけらかしは何が違うと思いますか?
他者に開かれているかどうかですかね。嫌な感じのガイドって、一見、相手を見ている顔をしながら、結局自分の満足にしか向かっていない。「このあたりは押さえておかないとね」とか、すごくハードルの高いものをおすすめしてみせたりとか、なんなら入手しづらいものをすすめたりとか(笑)。歓迎しているようで実は入ってこさせないようにする動きって、本に限らない話だと思いますけど、結構あると思います。
もちろん、奥へ奥へと進みたい人に対して高いハードルのものを提示する役割を担う人がいるのはとても健全なことだし必要なことだと思いますが、「古参と新参」みたいな線引きをしてマウントを取ろうとする人の動きってそれとは全然別様なんですよね。
――読書を巡る状況、つまり読書を楽しむというシンプルなことが放っておかれていることや、読書という行為自体がはらむ排他的な性質こそ、読書に最適化された場所がないことに対する一つの原因として考えた結果、ご自身でfuzkueをつくることになった――。
読書を楽しいものとして体験できる機会がもっと提供されたほうがいい。その一つの帰結として、それをすることに特化した場所があったほうがいい、ということですね。映画に映画館があるように、音楽にライブハウスやスタジオがあるように、読書にもそういう場所があったほうが、それがない世界よりは豊かだと思うんです。
――コアな読書好きに「これこそ読書の正しい在り方」と勘違いされることはありませんでしたか?
オープンして半年ぐらいしたとき、「何がfuzkueだ。読書はトイレが一番はかどるんだ」みたいなツイートを見かけたことはあります。読書のための場所を用意したことで、「読書を大げさにするなよ」という受け取り方をしたのかもしれない。でも、そうした誤解はもっとあってもよさそうですけど、5年前のそのことしか思い出さないぐらいです。
fuzkueをやっていても、これが読書の正解だという言い方は絶対にしたくないんですよね。読書はせっかくどこでもできる遊びなわけだから、いろいろな場所で行われたらいいし、それぞれがかけがえのない読書の時間だと思います。でもその中で、今日は何にも邪魔されず、とにかく読書を楽しみたいというときに、選択肢がない世界が不自然だと。
だから、fuzkueが合わない人はいくらでもいていいはずで、もっとうるさくないと緊張してしまうとか、読書の時間に2000円も3000円もかけたくないとか、そういう考えも正しいし、一般的なカフェで満足できたり、自宅で読めるならそれでいい。ただ、今日は特別だというときに過ごせる場所があったらうれしいし、豊かだと思うんです。
阿久津隆さん。fuzkue店主。岡山でのカフェ経営を経て、2014年10月、東京・初台にfuzkueをオープン。2020年4月には2号店を下北沢にオープン。取材は下北沢にて
徹底的な仕組み化で実現した、読書に最適な場所
――それではfuzkueについてお聞きします。2014年の6月に岡山から東京に戻り、その年の10月には初台でfuzkueをオープンされました。ほぼノンストップですが、現在のコンセプトはいつごろから頭にあったんですか?
岡山のカフェは3年間やっていたんですけど、次第に考えるようになっていきました。ぼく自身がいろいろな場所で本を読み損ねるという体験を重ねていたことと、カフェで読書するお客さんの姿を見ていて、こういう人たちを相手にした仕事をしたいなと思うようになって。
自分の体験で補足すると、『本の読める場所を求めて』の感想で思わず膝を打ったのが、「著者は不快さに対して敏感な人」というものなんです。たしかに、ぼくは自分が不快に感じたら、ただの違和感で終わらせないようにしている気がします。その正体を突き止めて解決しようとする。
fuzkueをオープンさせる前、カフェや喫茶店、図書館に行ったとお話ししましたけど、「静かであるか」「長居しやすいか」「イスは座りやすいか」など10項目以上についてそれぞれ○×△で評価して、リスト化したんです。その×をつぶしていって全部が○の店にすることができたら、読書に快適なお店になると考えていた気がしますね。
また、高円寺にある「アール座読書館」での体験も大きかった。いまもそうじゃないかとは思うのですが、僕が行ったときはほぼしゃべってはいけないというルールがあって、そうか、しゃべっちゃいけないことにしたらいいのか、と(笑)。
――現在、お店には会話禁止やパソコン、ペンの扱い方など、さまざまなルールがあります。ご自身が経験した不快さをとりのぞき、読書に快適な空間をつくるためには厳格なルール化が必要だった?
ぼくはデータベースや仕組みをつくることが強烈に好きなんです。小学生の頃は『実況パワフルプロ野球』の全選手のデータをノートにつけたり、高校受験のときはエクセルで英語の前置詞一覧表を作成したり。Evernote(エバーノート/メモアプリ)に凝っていたときもありました。
お店でもご注文内容や滞在時間など、伝票一つずつを細かなデータにしています。お店の滞在時間がだいたい2時間半というのも、ぼくの感覚ではなくて数字としてはっきり出ているものです。給与明細も手作業を挟まずにワンタッチでつくれるようにしたんですけど、それは何でもすっきりした仕組みにしたいという気持ちがあるからなんです。
料金システム(※)もお店の決め事も、めんどうくさいことをしたくないから。お店に立っていて、「この人はコーヒー1杯で何時間いるつもりだろう」「ちょっとうるさいけど声をかけたほうがいいかな」と、いちいち迷ったり困ったりしないで済みますよね。
※料金システム(2020年8月31日時点)
オーダーごとに小さくなっていくお席料制。ドリンク1杯でもある程度飲み食いしてもなんとなく2000円前後に収れんするようになっている。
(例)注文内容がドリンク1杯ならお席料は900円。それがドリンク2杯だと300円になる。
――料金システムに関しては、オープン当初はお客さんに払う金額を任せていたんですよね。
価格の自由設定はおもしろいんじゃないかな、意外にいけるんじゃないかと思って試してみたんです。一度思いつたら、検証しないと気がすまなくて。「いまの5時間、その金額か……」みたいなキツい気持ちになったりしたこともありましたけど、均してみると、現在それぞれのメニューに付けている価格とおおよそ齟齬のない額が支払われていました。
――それがなぜ、価格の自由設定をやめたんですか?
オープンして半年くらいしてやめたんですけど、もし、ぼくが現場に立たない人間だったら、そのまま続けていたかもしれません。現場に立っていると、いちいち支払いに緊張するという体験をするんですよ。これが従業員ならぼくより気楽にお金を受け取れると思うんですけど、ぼくは経営者なので、日々の売上には敏感ですよね。
でもそれよりも、最終的に決断したのは、お店にとってありがたい金額を支払ってくれたお客さんに対して、ちゃんと報いることができていないことに気づいたからです。それぞれのメニューに対してこのくらい払ってもらえたらうれしい、という基準価格を設けて、月ごとにその差を見ていて、著しく下回ったらやめようと思っていたんですが、それをクイズの答えみたいに表明できないじゃないですか。「あなたは秘密裏に設定している基準より高く払ってくださいました! ありがとうございます!」みたいな(笑)。
だから、お客さんに「あの金額でよかったかな?」というモヤモヤした気持ちのまま帰らせてしまっていると思って。それは仕組みとしてあきらかに間違っているから。いまのシステムにしてからは、お客さん全員を対等に歓迎できるし、お客さんも心地よくゆっくり過ごしていただけていると思います。
――「お客さん一人あたり、お店の粗利は1500円になるようになっている」など、ホームページやお店の案内で、お金についてはしっかり言葉をつくして説明していますね。
多少は教育的観点というか、お店が続くためにはお金が必要なんだよ、応援のお気持ちとかだけでは生きていけないんだよ、ということを知ってもらいたいという思いもあって。どこかのお店が閉店したあとに、「全然行ってなかったけれど、好きな店だったのに、残念」みたいにつぶやかれる光景を見るたびに、そういうの、しんどいぞ、という思いがあって。まあ、店をやっている側のエゴかもしれないですけど。
ぼく自身は読みたい本は可能なかぎり新刊で買っているんですが、それは、自分が大好きなものを生産してくれる人に対して、お金を払って貢献したほうが気持ちいいからなんです。お金ってどう考えても投票の手段として有効なので、できるかぎり好きなこと、存続を願うものに投票したいなと思うんですよね。
それと、これは考え方が古いかもしれないけど、お金を払ったほうが楽しめるような気がするんですよね。お金を払うことはつまり、楽しむための負荷を自分にかけることじゃないですか。お金を払ったほうが、体験の充実度が変わる気がする。「払った以上は楽しむぞ」みたいな。逆に、無料とか安すぎると雑に消費しちゃうことが多いように思いますね。
――今後、変えようと思っていること、または仕組み化しようとしていることはありますか?
下北沢では、読書以外の目的はお断りする形に変えてしまおうと思っています。いまはパソコンを開いたり、勉強もペンの音を気にしていただけるならOKにしているんですけど。下北沢は初台に比べてお店がコンパクトなので、となりの人の過ごし方の影響が大きい気がしてきて。
ただ、パソコンを開く人はいまはもうめったにいないんですが、紙を広げて勉強する人や仕事をする人は少なからずいらっしゃるので、そこまで絞るとさすがに売上は減るだろうなあと(笑)。いまはそもそも、諸々の影響なのか、店がそもそも求められていないのか、めちゃくちゃ暇ですしね。
――そんな状況でもあえて変えてしまおうと。
タイピングの禁止であるとか、これまでのいくつかの決断は、お店の売上が上り調子で、気持ちに余裕があったときなんですよね。変えようと思うきっかけはやはり不快感や違和感で、それは余裕があるときのほうが敏感になるというか、粗が見えやすい。ぼくは一度粗が見えると行動せざるをえないタイプだし。
それでも、いまはそういう調子の時期ですから、なんなんですかね、だんだん適当に捨てられるようになったのかな(笑)。試してみてダメだったらまた考えようと。
――いまはずっとお店に立たれていますが、経営に注力することは考えていますか。
ある程度そうならないといけないのかも、とは思っていますね。現場にとって、ぼくはスーパーサブぐらいの立ち位置じゃないと2つの店を健全に回し続けることはできないと思うし。お店に立つことは好きな時間なんですけど、それだとどうしてもできないこともあるので、いい塩梅を探さないといけない。
ちょうどいま、スタッフを募集しているんですよ。売上がまるで足りない状況が続いているのに、なぜ人件費を増やすのかと思いますけど(笑)。先のことを考えたら取り組まないといけないことかなと思ってのことです。ここでも仕組みづくりで、いまはスタッフが5人いてお店が2つあり、毎日24時まで営業している。その状況でどうしたらみんなの負担を少なくしながら、きれいに回すことができるのか。ぼくを含めた6人のチームでうまく情報共有ができて、みんなが簡単にキャッチアップできて、個々が得た知見もどんどん共有して店全体のナレッジとして集積させていって。
いまはそれをNotionというサービスを使って構築しようとしているのですが、そのための仕組みを考えるのが強烈に楽しい。これまでは、本を読みたいと思って来てくれたお客さんを幸せにするにはどうしたらいいのか、いろいろな環境やルールを決めることでつくり上げてきたわけなんですけど、それはある程度一つの完成に近づいた感があるので、今は働く人たちをどう幸せにするかに意識が向いているというか。店に立っている人たちが気楽にのびのび働ければ働けるほど、そこで過ごすお客さんにもプラスになるはずですから。
――下北沢は初台に比べてコンパクトなつくりですが、もし今後fuzkueを増やしていくとしたら、より大きなスペースで、ということもありえますか?
あまり広すぎないほうがいいだろうとは思っています。ぼくらがお客さんの様子を確認できたほうがいろいろなケアをしやすいということもあるし、お客さんにとっても他人の気配が感じられるのは重要な要素だと思っているんです。広さってそれを希釈してしまうから、ある程度は他者の目は残しおきたい。
ある場における体験をリッチなものにするためには、他者の存在が不可欠だと思うんですよ。他者があればこそ、敬意が生じる。自分の内に生じる他者への敬意とリッチな体験というのは、けっこう切り離せないものなのではないか、と。邪魔されない環境だけをつくろうとするのであれば、極端なことを言えば、個室にしてしまえばいいじゃないですか。
でも、個室でもなくパーテーションをつけるでもないのは、他人とともにあることによるぜいたくさがあるからです。個室は単純に緊張感がなくなってしまうから、まったく違う体験になるだろうし。パーソナルな時間を過ごせるのだけど身体の一部はパブリックに開かれている、という環境を用意することが大事だと考えています。
fuzkueは、読書が好きな人たちを可視化する取り組み
――fuzkueは理想の形に近づいたということですが、今後の展開は?
ずっと、本をゆっくり読みたい人を幸せにすることを掲げてきて、それはお店で実現することだと思っていたんですよ。でも、この春にWEBサイトのリニューアルをしたとき、デザイナーから「fuzkueはもっと大きなことをしてるんじゃないの?」と言われてハッと気づいたんです。
fuzkueがやっていることはたしかにお店に留まる必然性がない。「ただでさえ楽しい読書をもっと楽しくすることに寄与するのがfuzkueだ」という概念にアップデートされた。そうなると店舗だけにこだわることもなくなって、いまは読書のための音楽を提供したり、Twitter上で「#フヅクエ時間」という読書の時間を共有する取り組みをしたりしています。
これまで開催してきた「会話のない読書会」も、このアップデートに則るならば、fuzkueじゃない場所でどこかの誰かが開催したっていいんだよなということに気づいたり、いろいろな可能性を感じています。
――読書好きをつなげたいという意図がある?
つながりという言葉では全然考えていなくて、読書という行為を世界に向けて可視化したいんだと思います。「ぼくらはいるんだよ。存在しているんだよ」。その積み重ねが、本の文化に貢献できることの一つなんじゃないか。
店舗はもちろんリアルにその存在が見えるし、「#フヅクエ時間」ならここにもあそこにも本を読んでいる人がいるなって実感する体験になる。いままで一人で完結するものだった読書が、本を読む人がたしかに存在することが感じられるのは、ちょっとうれしい、何かがあたたまることだと思います。全然つながりたくはないですけど(笑)。
――本について語り合うこと以外にも、そんな形でコニュニティーを形成できるんですね。
コミュニティーというのもまた違うんですよね。コミュニティーなんて、ぼくは怖くて近づきたくもない(笑)。ゆるやかでテンポラリーな共犯関係、くらいのものだと思います。別にバーバルなコミュニケーションがなくても、人は共犯関係になれるんだよなと。決して仲良くなりたいわけじゃない。
だって、ひとくちに読書が好きといっても、好きなのがSFなのかミステリなのかビジネス書なのか、それはあまりに多様で、共通の話題を持てない相手のほうが大半だと思うんですよ。だから「読書が好きです」という言葉だけで人々が結びついたところで、共通のジャンルや共通の作家という接点を持てないならコミュニケーションは活性化しないというか。むしろ気まずさが募るだけで、そんなことならば天気の話をしていたほうがずっといいなと。
これが音楽であれば、その場で気軽に聴けたりして、「こういうのなんだね」とか言い合えるかもしれないけど、本は読まないと体験にならないので、いちいち時間がかかるんですよね。その体験を人と合わせるのはむずかしいことです。なんとなく好きなものが重なる人っていうのはもちろんいるので、そういう人とは話が持つかもしれないけど、共通点をどうにか見つけてそこにしがみついて行うコミュニケーションは、あまり積極的にしたいことではないです。お互いに疲れそうで(笑)。
それでも「読書が好きな人」という括りでできることがあるとしたら、「私はいま本を読んでいる」という行為を共有することだと思います。ただそれだけを共有するくらいが、気楽だし人を傷つけないし、苦しくないし、いいなと。感想とか、読んでどう思ったとかも全然重要じゃなくて、たとえばぼくが自分の趣味を押し出して、好きな本をどんどん勧めるみたいなこともできるかもしれないけど、それによって狭まる門戸みたいなものがあるならば、悪手だなと思う。読書をしたいというすべての人に開かれる状況ではありたいなと思っていますね。
読んでいる本でその人を評価するとか、上手な感想を言えたほうがより深く読んでいることになるとか、そんなのはおかしな話で、楽しく読んでいる人こそがその本を楽しく体験しているわけなんですよね。僕はそんな人たちが好きなので、楽しく読書をしたい人のための場所を守り続け、そしてつくり続けたいと思いますね。
fuzkue
東京・初台
〒151-0061 渋谷区初台1-38-10 二名ビル2F
12:00-24:00(だいたい無休)
東京・下北沢
〒155-0033 世田谷区代田2-36-14(BONUS TRACK内 fuzkue)
12:00-24:00(だいたい無休)
https://fuzkue.com/
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