現在、東京ステーションギャラリーにて開催中の「鉄道と美術の150年」(2023年1月9日まで)。今年150周年を迎える日本の鉄道史を、錦絵から近現代美術まで、鉄道をモチーフにした作品とともにふり返る展覧会だ。名作から話題作、問題作まで全150件もの作品が展示されているとのことなので、本展を隅から隅まで楽しむために、担当学芸員の若山満大さんに話を聞いた。興味深い鉄道の話が盛りだくさんで、予習や復習にもピッタリだ。
1872年、文明開化の象徴?だった鉄道
――最初に、「鉄道と美術の150年」がどんな展覧会なのか教えてください。
鉄道が開業してから今日までの150年間を、美術の視点を借りてふり返るという内容になっています。鉄道が初めて登場したときは、どのように描かれたのか? 明治後半から大正初期にかけて街が拡張され、高度化されていく中で、鉄道がどうやって社会に浸透していったのか? 戦時中、戦後、高度経済成長期において、鉄道は社会にどのように寄与したのか? 1872年の開業から現代まで、鉄道をモチーフにした作品を時代ごとに並べることで、150年の歩みをたどることができるようになっています。
――鉄道が開業した1872年、「美術」という言葉が誕生したそうですね。
はい。鉄道が誕生したこの年に、日本で「美術」が初めて登場します。それまで日本には美術という概念はなかったんです。しかし、それに近いものはありました。床の間の掛け軸やお茶碗、香炉、仏像……美的な価値を伴う造形物は、社会の中にたくさん存在しました。それら書画や仏像と呼ばれていたものは、英語の「アート」やドイツ語の「クンスト」、フランス語の「ボザール」という外国語に対応した「美術」という語の範疇に入れられていったという経緯があるんです。
たとえば「彫刻」と言われれば西洋のブロンズ像を想像すると思いますが、そんなものはなかったので、ひとまず仏像や人形を彫刻と扱ったんです。そんなごった煮というかカオスな状態だった美術が、時代を追うごとに「欧米ではこういうものをスカルプチャーと呼ぶのだ」「これをペインティングと呼ぶのか」のように理解が進み、整理されていきました。そして日本でも教育機関ができることで、今度は美術を体現する、発信していく人が登場していくわけです。
若山満大さん。東京ステーションギャラリー学芸員。神戸大学大学院人間発達環境学研究科修了。愛知県美術館学芸員、あいちトリエンナーレ2016、アーツ前橋学芸員を経て現職。主な研究領域は日本写真史および近現代美術史。最近の著作に『Photography? End? 7つのヴィジョンと7つの写真的経験』(2022年、magic hour edition)、「日中戦争期の『アサヒカメラ』誌上にみるアマチュア写真家の動員―戦中日本の慰問写真に関する断章(1)」『東京ステーションギャラリー研究紀要第8号』(2022年)などがある。
――では、時代を追いながらくわしくお聞きしたいのですが、まずは鉄道開業当時を代表する作品を教えてください。
いくつかありますが、一つが歌川広重(三代)の《横浜海岸鉄道蒸気車図》です。構図や鮮やかな色使いなど、明治期の錦絵の中でもよく知られた作品です。
歌川広重(三代)《横浜海岸鉄道蒸気車図》1874年、神奈川県立歴史博物館
――錦絵というのは?
多色刷りの木版画のことです。1色ごとに版木を掘って刷るので、色の数だけ版木があることになります。
――浮世絵との違いはなんですか?
浮世絵は江戸時代から明治時代にかけて制作された絵画のことで、ほとんどは木版画のことを指しますが、肉筆画なども含まれますね。開花期のめずらしい物の形というか、イメージを伝えるために果たした役割は大きいと思います。ですから、歌川広重の作品をはじめ、鉄道もたくさん描かれました。
ちなみに、本展では瓦版も展示されていますが、瓦版はいわゆるビラで、美術的な造形性よりも速報性や、安価に刷って大量に配ることを目的にしたものです。そのため、錦絵のほうが絵画としての造形性にこだわったメディアと言えます。
そういうわけで、開業当時の作品を見ると、多くは本物にひとまず忠実であろうとしています。そんな中、河鍋暁斎の《極楽行きの汽車》(『地獄極楽めぐり図』より)はファンタジー色が強くなっています。
河鍋暁斎『地獄極楽めぐり図』より「極楽行きの汽車」1872年、静嘉堂文庫美術館画像提供:静嘉堂文庫美術館/DNPartcom(展示11月6日まで)
――なかなか主張が強めの作品ですけど、何を描きたかったんですか?
これは、14歳で亡くなったある女の子の供養のために描かれました。彼女が極楽に行くまでを描いた画帖の中の1枚です。この作品のおもしろいところは、汽車を極楽へ行くための乗り物として登場させたところで、今日の霊柩車的――お寺の造形なわけですよ。それに車輪をつけ、煙突をつけ、走らせる。同時に雲に乗った天女たちが追いかける構図になっています。河鍋暁斎は汽車のこまかい造形までは知らなかったと思います。その足りない部分を絵師の想像力で補って絵として成立させているんです。
――けっこう想像力を働かせるんですね。
小林清親の《高輪牛町朧月景》もそうで、おそらく想像で補って描かれたものです。
小林清親《高輪牛町朧月景》1879年、町田市立国際版画美術館
――かなり写実的な作品に見えますが……。
これは高輪築堤という、海上に線路を敷くために作られた鉄道構造物を走る汽車を描いた作品なんですが、当時ここを走っていたのはイギリス製の汽車。でも描かれているのは、北海道でしか走っていないアメリカ製の汽車なんです。
先ほど紹介した歌川広重の作品も比較的ちゃんと描かれていますが、各国の国旗を掲げた船と一緒にという状況はなかったかもしれない。でも、要は文明開化を象徴するようなものを組み合わせて1枚の絵として構成したのかなと思います。
――すごく肯定的に描かれていますね。
これは間違いなく賛美ですよね。それが時代が進むと徐々に皮肉をきかせた作品も登場するようになります。たとえば1883年には小林清親が《下等の乗合》(『団団珍聞』第388号より)を描いています。これは西洋化だ、近代化だと進んできたけれども、社会のいたるところにひずみが生まれているよねという話なんです。汽車を擬人化するという造形的なおもしろさと同時に、社会風刺まで行われている。つまり鉄道は、必ずしも前途洋々なプロジェクトとは言えなかったし、全員にとってハッピーなものでもなかったということですね。鉄道が及ぼした社会の変化について行けなかった人、その恩恵から漏れてしまった人もいたんだ、と。
(ざっくり鉄道史①)
・1868年 江戸が東京に(明治元年)。
・1872年 日本初の鉄道が新橋-横浜間で開業。
・1874年 大阪-神戸間開業。
・1883年 日本初の私設鉄道(私鉄)が上野-熊谷間で開業。
明治後半以降に見る、鉄道の発展と描かれ方の関係
――鉄道と美術がともに発展していく中で、次に注目すべきポイントを挙げるとしたらいつでしょうか。
1889年です。大日本帝国憲法が発布されたこの年、鉄道では東海道線が全線(新橋-神戸間)開通し、美術では東京美術学校が開校しています。先ほど、美術を体現・発信していく人が登場すると説明しましたが、教育機関ができたことで、いわゆる鉄道美術も変化していきます。開業当初は錦絵や瓦版、双六などがほとんどでしたが、油彩画なども描かれるようになるんです。
それに合わせて、鉄道の描かれ方も多様になっていきます。たとえば、赤松麟作の絵がまさにそうであるように、それまでは鉄道を外から描く絵が多かった。でも今度は目線が中に行くわけです。これは鉄道を描きたかったわけではなくて、鉄道の中にいる人たちを描きたかったわけですね。
赤松麟作《夜汽車》1901年、東京藝術大学
――なるほど。
蒸気機関車がものめずらしい時代は過ぎ去り、画家の視点が、鉄道の中、あるいは鉄道に乗る人間模様のようなものに向かって行った。この作品はそれを象徴しています。実際、作品を見ると最初に目が行くのは左の女性です。そこから視線が奥に誘導されていって、最後に「そうか、これは汽車の中か」と認識する。汽車はもう背景になっているわけですよね。
本展で取り上げている作品にはたいてい鉄道が描かれているのですが、その背景には当然当時の社会が描かれています。最初は蒸気機関車がめずらしいから描かれていたのが、だんだんと駅舎といった建物が中心に描かれていったり、郊外にも鉄道が伸びていくと郊外の景色とともに描かれたり。時代ごとに鉄道がどこに登場するのか、という点に注目してもおもしろいと思います。
五姓田義松《駿河湾風景》笠間日動美術館
――鉄道の整備も順調に進んだ?
明治中期から大正、昭和初期にかけて一気に進みます。1906年に鉄道国有法を公布して、翌年までに主要な私鉄17社を買収して国有鉄道にしました。1914年には中央停車場が完成して、東京駅と命名されます。日本の中央駅の誕生ですね。
――東京駅ってよくモチーフになりますね。やはり象徴的な存在なんでしょうか。
日本の鉄道の中枢として、首都圏主要路線のターミナル――最終駅になるものとして建てられています。関東大震災も戦争も超えて、今でも建っている。この国の歴史を背負っている、日本を代表する駅ですよね。もちろん建築としても魅力的で。
望月晴朗の《同志山忠の思い出》も東京駅が舞台になっています。アナーキズム詩人の山本忠平が、国際労働機関から来た使節に向かって排撃の演説を行ったシーンを描いたもので、駅を舞台にしたハプニングというかパフォーマンスですね。この作品が舞台になった場所というのは、ちょうど東京ステーションギャラリーのある丸の内北口のドームなんです。
――なんと!
展覧会で作品を見たあとに実際の場所に立っていただくと、絵画の中の空間と現実の空間がリンクしてちょっと感慨深いと思いますね。
回廊からドームを見下ろす
ちなみに、鉄道の整備が進むことによって、鉄道旅行もさかんになります。1912年にはジャパン・ツーリスト・ビューロー、JTBが設立されて、海外の観光客誘致を含めた観光振興を始めるんです。里見宗次の《JAPAN: Japanese Government Railways》を展示していますが、これは外国人客誘致のポスターです。恐慌などで国内経済が疲弊して、今度は外国人を呼び込んで外貨を獲得しようとした。国内の鉄道網がこの時点である程度整備されていたので、船で乗りつけてもらえれば、国内の主要な場所に行けますよ、という状況が整っていたわけです。
――1912年から外国人客を誘致していたとは驚きですね。
思ったより早いですよね。
(ざっくり鉄道史②)
・1889年 東海道線全線開通。
・1912年 大正元年。
・1914年 東京に中央停車場完成、東京駅と命名。
・1926年 昭和元年。
・1927年 日本初の地下鉄が浅草-上野間で開業。
・1940年 全国の鉄道網が約2万キロに達する。
戦後、クリティカルな表現が際立つようになった鉄道美術
――戦後、鉄道はどのように描かれてきたのでしょうか。
開業当時とはまったく違うものになっていきます。展示作品を選ぶにあたっていろいろ調べていくと、鉄道の理解や解釈が非常に多様なんです。特に戦後、1960年代以降、前衛美術家たちは鉄道――列車内や駅など――で奇々怪々なパフォーマンスをします。
なぜ鉄道を利用したのかといえば、おそらく社会を象徴するものだったからでしょう。たとえば駅は、同じような背広を着て同じ方向に向かって歩いていく。そんな閉塞的で画一化されつつある社会を象徴する場所でした。そう考えた芸術家たちは、みずからの主張を電車や駅で高らかに掲げるわけです。
――村井督侍の《「山手線のフェスティバル」ドキュメンタリー写真》はかなり衝撃的でした。
日本の戦後前衛美術の中でもかなりショッキングな作品ですね。彼らがなぜあんなことをしたかというと、1964年の東京オリンピックに向けてどんどん都市や社会が整然としていくことをよしとしなかったわけです。それは物理的にきれいになっていくというよりも、人間のものの考え方が画一化していくことがたまらなく息苦しかった。本当にそれでいいのかと問題提起をしたかったんだと思います。
だからこそ、いつものルーティンをこなす電車の乗客に向けてパフォーマンスを行った。彼らなりの美術、皮肉のきいたコミュニケーションなんです。彼らは警察に捕まるリスクよりも、社会が一つの方向に収斂して行くことのほうがリスクだと考えていたのかもしれません。
――そして鉄道の発達が画一化の一端を担っていた。
そうです。
平田実《「路上歩行展」と通勤者たち(中村宏・立石紘一作): 東京駅~京橋かいわい》1964年(プリント2016年)、東京ステーションギャラリー
――そのような鉄道に対する意識の変化を一望できるのは、本展の魅力でもありますね。
そうですね。同じ平面芸術の中に現れる汽車でも、時代によって意味合いが全然違ってくるんです。中村宏の《ブーツと汽車》(1966年)では、汽車はもう時代遅れだとされていましたから。1950年代の後半に、国鉄主導で動力近代化計画が始まったことで、汽車はエネルギー効率が悪いと判断されるようになった。坂道に弱いし煙も迷惑で都市部を走れないしで、完全に時代遅れだと。
中村宏《ブーツと汽車》1966年、名古屋市美術館
――文明開化の象徴だった汽車が登場からたった100年で……。
ここから鉄道の解釈がガラッと変わるんです。すなわち、ノスタルジーの対象になってくるわけですよ。「古き良き時代」を象徴するものになっていく。明治時代とはあきらかな差ですよね。それまで便利な移動手段だったものが、そうではなくなってしまった。でかい図体のわりに役に立たないものとして扱われるなんて、すごく切ないじゃないですか。
それを画家はちゃんとかぎつける。過ぎ去った時代の象徴として、道具としての意味を剥奪された空虚な記号として、絵画の中に登場させてみるわけです。同時に、今でいう撮り鉄が60~70年代に増えるんですけど、それも汽車がノスタルジーの対象だったからかもしれません。
――撮り鉄ってそんな昔からいたんですね。
戦前からいましたが、SLブームも手伝って増えたと。それだけ被写体としての価値があるわけでしょう。言い換えれば、もうなくなっていくから価値が高まったのではないでしょうか。移動手段としての汽車ではなく、美しい造形物として写真に撮ろうとした人が増えた。
――最後に《ディスカバー・ジャパン no.4》についても聞かせてください。これが1971年、国鉄時代のポスターだとはなかなか信じられなくて。
半世紀も前のポスターがいまだにカッコイイっていうのは、シンプルに驚きですよね。これは国鉄がイメージを刷新するために作ったというのがポイントで、この時代、国鉄は多くの人々に、権利意識が強く、仕事をしないというイメージを持たれていました。なぜかというと、国鉄の労働者はストライキの権利を持っていなかったんです。労働者として当たり前の権利が認められてなかったっていう背景があって、国鉄で働く人たちは民間の労働者と同じような待遇を認めるべきだと、国を相手取って闘争をくり返してきたわけです。
その中で、一部の人たちではありますけど、ストライキなどをした結果、当然ダイヤは乱れますから、利用者は困惑してしまいます。そんな状況で70年代に入ると、国鉄離れが進んでしまうという危惧があったんですね。それまでは1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博と社会が盛り上がり、旅行客も増えた。でも、70年以降は旅行者が減るのは目に見えていました。だからこそ、国鉄のイメージを刷新し、積極的に旅行してもらおうとキャンペーンを仕掛けたわけです。
《ディスカバー・ジャパン no.4》1971年、鉄道博物館
――結果はどうだったんですか?
成功もしましたが、その反面、批判も出ました。「問題を覆い隠しているだけで、国鉄の体質は変わっていない」と。そのほか、都市の人間を田舎に送り出して「あぁ、これが東北なんだ」みたいな都合のいい地方のイメージをつくり上げて消費するのはよくないと、倫理的な側面からも批判があったようですね。
――国鉄って嫌われていたんですね。
当時はそうですね。ただ、国鉄の労働組合の人々も当然切実な思い――自分のため、家族のため、あるいは同じ待遇で未来に働く人のため――で、少しでも待遇を改善したいと必死だったと思います。その当たり前の権利を獲得しようという思いが、社会の反感を買ってしまったという切ない結果があるわけですよ。よかれと思ってやったことが、必ずしもよい結果につながるとは限らないし、自分の幸福は、たとえどんなに小さなことであれ、誰かの犠牲なくしては成り立たない。世の中はつねに複雑で、困難ですね。
――このポスターの背景にそんな歴史があったとは……。こうして解説をお聞きすると、いろいろな発見がありますね。
今回は解説をかなり充実させたので、新たな発見があると思います。文章を読むのは疲れるかもしれませんが、すべての作品解説にヘッドラインをつけたので、拾い読みして興味のあるところだけ見ても楽しめるようになっています。
――《ブーツと汽車》なら“「時代遅れ」の象徴、「無限」行きの蒸気機関車”ですね。作品だけ見てもよし、解説を読むと作品の背景などの理解も深まりますね。
そうですね。1872年から2022年まで、150年をまっすぐにつないでいるので、線路の上を行くように、安心して見ていただけると思います。
JR東京駅丸の内北口 ©Yanagi Shinobu
(ざっくり鉄道史③)
・1949年 日本国有鉄道発足。
・1964年 東海道新幹線が東京-新大阪間で開業。世界初の200km/h超での運転開始。
・1976年 国鉄、蒸気機関車全廃。
・1987年 国鉄分割民営化(JRの発足)。
・1989年 平成元年。
・2001年 JR東日本が「Suica」を導入。
・2019年 令和元年。
・2022年 日本の鉄道が開業150周年を迎える。
鉄道と美術の150年
会場:東京ステーションギャラリー
会期:2022年10月8日(土)~2023年1月9日(月・祝)
休館日:月曜日
時間:10:00~18:00(最終入場時間は17:30) ※金曜日は20:00まで(最終入場時間は19:30)
観覧料:一般 1400円/大学生・高校生 1200円
※中学生以下は無料
問い合わせ先:03-3212-2485
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