創業者の東浩紀さんと現代表の上田洋子さんを迎えてふり返るゲンロンの10年。第1回では主にゲンロンの活動が人文知や批評が好きな人、つまりゲンロンの客を育てることに注力してきたことを見てきた。第2回では演者という視点から、言論人のあり方、ゲンロン10周年の目玉としてローンチされたポータルサイト「ゲンロンα」、そして夏に向けて準備が進んでいる映像配信プラットフォーム「シラス」、さらにはジェンダー問題まで、ゲンロンのこれからの役割を探る。
撮影:吉村 永
言論人は、暴言を吐いても許される聴衆を獲得せよ
――ゲンロンが日本の言論界で無視できない存在感を示すまでに至ったのは、東浩紀というブランドがあってこそだと思います。そもそも東さんがほかの言論人と一線を画すことができたのは、どうしてでしょうか。
東 ぼくは話に才能があると言われるけど、その根幹にはニコ生でのおもしろトークがあるんですよ。ニコ生が話題になっていたとき、ぼくは若手論客としてたまたまニコ論壇の中心にいて、実際にしゃべったらニコ生とじつに相性がよくていまに至っている。これは本当にまれなケースだと思います。
もう少し一般化すると、暴言を吐いても許される聴衆を獲得することができたということですね。こう言うとネガティブに聞こえるかもしれないけど、実はこれがないと、言論人も文化人も、おそらく政治家ですら、何も活動できない。
暴言を吐いても許されるというのは、要は一人の人間として見られているということです。「発言の一部を切り取るとすごく過激に聞こえるけど、この人はこういう文脈で話しているんだから、違う文脈と結びつけて批判するのはおかしいよ」と言ってくれる人たちを一定数もつこと。
誰が聞いても安心する言葉というのは、どうしても本質をつかんでいないものにならざるをえないんですよね。何かについて分析したり、深いことを言おうとしたら、あるタイプの人たちが聞いたらギョッとするような言葉になるときがあるわけですよ。それを避け続けると深い議論はできなくなってしまう。
いま起こっているのはまさにそういうことで、みなが暴言を吐かないように相互監視している。とくに、若い人たちは暴言をどんどん吐けなくなっています。その一方で、年寄りはまだ暴言を吐けるわけですよ。なぜなら、年寄りには「あいつが言っているんだから、しょうがないな」という聴衆がいっぱいいるから。これは不公平です。だからこそ、これからの世代の人たちも、自分の聴衆をつくっていかないといけないんですよね。
――そういう意味では、SNSでフィルターバブルをつくって閉じこもることも一つの手段と言えそうですが……。
東 ぼくはそうは思いません。フィルターバブルをつくって、同じ聴衆に向けて同じことばかりを言うのは、長期的にはすごく疲弊する話です。たとえば、エンタメ作家としてあるシリーズがヒットして、それだけをずっと書き続ける。これは大変疲れることだと思う。「俺だって、いろいろ読んでいるし、違うものを書きたいよ」という気持ちになるはずです。そんなときでも、ちゃんとついてきてくれる人たちをつくらないと、ずっと読者にサービスし続けて終わっちゃうんですよね。
上田 たとえばアイドルや俳優が歳をとってもずっと同じイメージであることを求められたりしますよね。でも、当たり前のことですがそれでは代わり映えがしないし、本人にとっても人生がつまらないものになってしまう。予想外の変化があっても、それはどこかでつながっているはずだからしばらく様子を見てみよう、と思ってくれる人たちが大切なんです。
東 ぼくが責任をもって言えるのは言論人としての話だけど、ぼくより下の世代の若い言論人も、これから歳をとっていくにあたって、多少は暴言を吐いても許されるはずだという確信をもてるようにならないとすごく厳しくなると思う。20~30代の頃は若いから何を言っても大丈夫なんです。でも、40~50代で、「暴言を吐いたら終わりだ」と思いながら活動していると、本当に狭い専門的なことについて、絶対に正しいことしか言えなくなってしまう。
ずっとクリーンなイメージで、何も齟齬を起こさないように生きることはすごく厳しい生き方ですよ。人間は失言するものだし、いろいろガマンできなくなるものなんですよ。とくにSNSがあると、政治的な発言もしたくなる。そのとき「こいつだからしかたないな」と許されるのか、「ニワカが何を言い出したんだ」と炎上するのか。それは発言の背景を理解してくれる聴衆を育てているかで決まると思います。
――東さんは一時期、Twitterのアカウントを削除されましたが、SNSを利用することのメリットがあまり感じられなかったのでしょうか。
東 そうですね。SNSでは、人の揚げ足をとろうと思ったら何だってできる。過去の言説を組み合わせて物語をつくるのは簡単だし、拡散しようと思ったらすぐにできる。そういう場所にいると大変疲労することになります。
上田 「あいトリ」の状況を横で見ていたときは(あいちトリエンナーレの企画アドバイザーを務めていた際、東さんはTwitterで多数の誹謗中傷を受けた)、SNSはもうやめたほうがいいだろうと感じました。私に対してもごくまれにありますけど、自分とは相容れない意見を見ると、容姿のこととか、まったく関係ないことを言ってくる匿名アカウントの人たちがいる。東さんみたいに強い意見を言う人には、そういうアンチはとくに多いと思います。
――SNSを利用していれば、匿名アンチが寄ってくることが避けられませんよね。
東 匿名アンチはまだいいんですよ。あいトリ問題ではぼくは本当にリベラルの人たちが嫌になってしまったんだけど、彼らは実名で、ぼくに対して人格的な中傷をたくさん言ってくるんですよね。それも小説を書くような言葉のプロが。そういうのを見ていたら、SNSという場所そのものがダメなんじゃないかと思いましたね。
ぼくはまったく安倍政権を支持しているわけではないけど、「安倍政権を支持する人たちだったら、いくらでも罵詈雑言を浴びせていい」というムードがつくられていて、リベラルの人たちは言語感覚がおかしくなっていると思います。ぼくもそこに入れられてしまった。
それであらためて、そういうことに巻き込まれないまま、いかに好き勝手なことを言える信頼の空間をつくるかを考えるようになりました。そうなると、やはりある種の閉鎖空間、半分開いているけど半分閉じている空間が必要なんですよ。
――ゲンロンカフェは大人同士の教育をする場所、つまりゲンロンの客を育てながら、登壇者が自分の聴衆を獲得する機会も提供しているわけですね。
東 そうです。登壇者に長時間しゃべってもらうことの意味もそこにある。3~4時間もしゃべっていると、だんだんと本人の素が出てきます。結局、人は自分のイメージ通りに自分をコントロールすることができないんです。そしてそれが見えてきたとき、はじめて信頼関係が生まれる。これは、正直になんでもしゃべればいいという意味ではないんです。ただ、こちらが人間であることをわからせることができれば、何か問題が起きても「少し背景を考えてみよう」と思ってもらえる。
このことは夏にオープン予定のシラスにも関係していて、ぼくとしては、若い言論人やクリエイターが、シラスを使って自分の聴衆を育ててほしいんですよね。ただお金を払ってもらうという「ユーザー」ではなくて、自分の聴衆を育てる。言論人やクリエイターが聴衆と一緒に歩むというあり方が、これからはすごく大切だと思っています。
これからのゲンロンが担う、人文系メディアとしての役割
――4月に人文系ポータルサイト「ゲンロンα」がオープンし、夏には映像配信プラットフォームの「シラス」が導入される予定です。メディアとしての影響力が増しそうですね。
上田 ゲンロンαは人文系の論考や対談記事を中心に掲載するウェブサイトです。これまでゲンロンが手がけた1000本に迫る記事を公開(一部記事は有料)するほか、ゲンロン以外の人文系の新刊情報やイベントニュースも掲載していきます。まだオープンしたばかりですが、オリジナル記事も増やしていきますし、今後はゲンロンの活動全体を追うことができるようなサイトになります。
ゲンロンα
――ゲンロンαはどういう経緯で企画されたんですか?
東 毎月電子書籍で発行している『ゲンロンβ』のバックナンバーが50号を超えて、過去の記事が死蔵されたままだったので、ずっと生かしたいと考えていました。このタイミングでリリースしたのはゲンロン10周年キャンペーンの一環でもあります。コロナ禍でみんなに忘れられているんだけど(笑)。
上田 10周年の目玉としてゲンロンαのオープンと、『新対話篇』と『哲学の誤配』の出版があったんです。
『新対話篇』(左)と『哲学の誤配』(右)
東 シラスも10周年に合わせた取り組みの一つです。ゲンロンは、これから対話プラットフォームの方向に歩んでいくという意思表示でもあります。なぜ対話なのかと言えば、先ほど言ったように、自分の聴衆つまり客を育てることが大事なんだと。いままではゲンロンの客を育ててきたんだけど、これからはそれに加えて、ほかの言論人やクリエイターが自分の客を育てていくことも支援する。
その方法として、いまのクラウドファンディングやChange.org(チェンジ・ドット・オーグ)のような、一過性ですぐに忘れ去られるものではなく、サブスクリプションという形をとる。
上田 シラスはプラットフォームとして、ゲンロンカフェの放送だけでなく、ほかの方にも声をかけてチャンネルをもってもらいます。視聴者は個々のチャンネルをいわば定期購読する。つまり、クリエイターは自分の制作について視聴者に対して発信することで、一時的な支援ではなくて継続的にコミットしてもらう。
東 ゲンロンカフェのようなトークショーに限らず、クリエイターが作品を制作しているところをただ流すような番組の形も考えています。客は番組にお金を払っていることになるんだけど、実際はクラウドファンディングのようなもので、そのクリエイターを支援することになる。
番組では本人が作品をつくりながらボヤいていてもいいし、作品制作について誰かとしゃべっていてもいいんだけど、そうするとクリエイターの人格も見えてくるし、客がどういう人間を応援しているかもわかるようになってくる。そういうコミュニティーこそが、クリエイターの聴衆になる。
上田 歌舞伎を例にするとわかりやすいでしょう。歌舞伎の観客は一人の役者を子役の頃から生涯ずっと見守ります。「前回は上手じゃなかったけど、今回はよかったよね」とか、観客の側も忍耐力をもって、ちょっと我慢をしたりしながら成長過程を見ていくという側面があって。シラスはそういう場所を提供できるんです。
女性が言論人として登壇できる機会を増やしていく
――女性である上田さんがゲンロンの代表に就いたことで、ジェンダーの問題について変化させたいと思うことはありますか?
上田 ここ1~2年は、ゲンロンカフェの登壇者に毎月女性がいる状態を維持しています。取り組みはじめた時期も遅いし、まだまだ少ないのですが。また、女性の著者も少しずつ増やしていく努力をしています。日本では女性のクリエイターや研究者は多いんですが、批評や論争などの分野に関してはまだ少ないんですね。
東 日本の論壇が男性中心的だったのは明らかなんですが、問題はSNSの出現によって論壇自体が崩壊していることですよね。簡単に言えば、SNSが政治の二極化を加速させてしまった。右と左がリアルタイムで対立して、祭りがバーッと広がってはすぐに忘れ去られてしまう。さらに、古い知識人はダメだという風潮も混ざってしまった。
そういうところから考えると、ぼくがやっている仕事は古いスタイルの論壇的なものを守っているように見える。女性に対する門戸を開いていないように思われてしまう。実際、上田さんがゲンロンの代表になる前、Twitterで「これからはゲンロンもジェンダーのバランスを考えてないといけないね」とツイートしたら、「いまさらそんなことを言うのか」と批判されてびっくりしたことがあったんですよ。
でも、その批判にこそ、それまでのゲンロンのイメージが表れている。つまり、ゲンロンはマッチョな空間をつくってきた。そしてそういうものを求めるお客さんがついている。それはぼくの問題で、批判には驚いたけれど反省もさせられました。ぼくとしては、とにかく開かれた言論空間をつくりたいので、ジェンダーに配慮することもこれからやっていかなければいけないと思っています。
実はゲンロンスクール、とくにマンガやアートスクールの生徒は女性比率が高いんです。講師は男性の比率が高かったんですけど、よく考えると生徒は女性が多い。だとしたら、講師も女性をもっと呼ぶのが商売としてふつうですよね。上田さんが代表になってからは、社内のジェンダーの比率もじわじわ変わってきました。
上田 すでにお話しした通り、ゲンロンカフェの登壇者のバリエーションが広がっているのは、東さんがいろいろなジャンルの議論でホストになれるからです(その1参照)。その点、私自身はまだまだ力不足で、視野の広さも知識も、言語化の訓練も足りないので何とかしなければなりません。社内の女性スタッフはこれからも増えていくと思いますが、企画やイベント司会などでも助けてくれるような女性ブレーンにも入ってきてほしいですね。
――時にラディカルな行動が状況を大きく動かします。ゲンロンカフェで#MeToo運動の回や女性だけの回を放送するといった、明確な意思表示をすることは考えていますか?
上田 私も、とくに若い頃には、女性であるせいで損をするというようなことはよくありました。また、私の専門であるロシアでは、日本に比べて女性の言論人が多く、自由に語り、要職に就いている人も多いのをうらやましく思っていました。日本においても#MeToo運動でいままで見えていなかったものが可視化され、状況が改善されることの意義は大きいでしょう。
ただ#MeToo運動に関して言えば、スピードが優先されるネットが主戦場ということもあり、ともすれば本来の文脈を外れてしまうという側面もあると思います。目指すところは男女が平等な社会であるはずです。それが、個人攻撃や、男性全般に対する漠然とした攻撃に矮小化されてしまっては元も子もない。
19世紀ロシアの作家トルストイの小説『アンナ・カレーニナ』は女性の権利がテーマで、「幸せな家庭はどれもそっくりだが、不幸な家庭はさまざまである」という言葉ではじまります。#MeToo運動のような、社会をまきこむまったなしの動きも必要ですが、複雑なことの複雑さを立ち止まって考えることも同時に行われてしかるべきでしょう。私は#MeToo運動に積極的に参加するというよりは、自分にできることを慎重に考えて、それを継続する努力をしていきたいと思っています。
ただ女性だからといって下駄を履かせて男性を減らしてもしょうがないと思うんですね。実力のある人がきちんと評価され、自分の力を発揮できる場所をつくることが重要で、「女性が活躍できる場所」という空っぽな空間を設定しても意味がない。むしろ女性だろうが男性だろうが若かろうが歳をとっていようが、能力のある人が自由にしゃべったり書いたりできる空間であることを認知させていくことが大事なんです。
女性が言論人の一人として出てくることがふつうにあるのが望ましい。実際、私より下の世代では議論をしたり書いたりできる人が増えていると思います。そういう人にしかるべき活躍の場を提供する。それこそ私がゲンロンにいることの使命でもあると思います。
東浩紀の人生観
――起業して10年続く会社は数パーセントと言われる中、ゲンロンは11年目に入りました。あえて会社経営に乗り出し、経営危機を乗り越え、途中で代表交代も経験されました。創業当時と比べて、経営観に変化はありましたか?
東 人生って偶然の連続しかないと思うんですよね。ぼくはもともと批評家になろうと思っていたわけではないんです。新人賞も応募していない。
ただ、大学2年のときに柄谷行人に出会ったことがきっかけでこうなったんですね。ある講演会で柄谷さんと会い、そのあと彼の授業を受けに行ったんですよ。そして、授業後に彼をつかまえて食堂で話をしたら、阪神タイガースの話しかされなかった。
これではラチがあかない、何か書かないと語るきっかけもないじゃないかという動機で書いたのが、じつはぼくのデビュー作「ソルジェニーツィン試論:確率の手触り」です。それがなかなかおもしろいからと、『批評空間』に掲載された。そこから批評家としての人生がはじまったわけです。
ぼくは東大生だったけど、柄谷さんと会ったのは早稲田の学祭だったし、授業を受けに行ったのは法政大学だったわけですよ。もちろん東大にもすごくお世話になったけど、たまたま出会った人、たまたまやったことから刺激を受けて、人生が変わった。こうした偶然はこれまで何回もあって、人生ってそんなもんだと思うんですね。
ぼくには、そういう偶然が生まれる場所を提供したいという思いがある。どういう形をとるのがいいか、実はまだあまりわかっていないんだけど、誤配の場をつくりたいから、方法も誤配になるんだと思います。
――代表を交代したことで、東さんは制作者としての比重が増えたと思います。今後はよりクリエイティブな仕事が増えていくんでしょうか。
東 まず本は出ますよ。とくに『ゲンロン0 観光客の哲学』については、増補版を出そうかなと考えています。コロナによって観光客の哲学、観光客の権利をどう考えるかは非常に具体的な問題になった。あと、『ゲンロン10』からスタートした「悪の愚かさについて」というシリーズがあるんですけど、これも1冊にまとまるはずです。ほかもいろいろ考えています。
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