メガCDを代表するRPG『ルナ』シリーズ2作や、『ファイナルファイトCD』など、新たな収録タイトルが発表された「メガドライブミニ2」。10月27日発売に向けて、メガドライブの歴史をふり返る本連載も第3回です。今回、焦点を当てるのは1991年。セガの看板タイトル『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』の発売や、CD-ROMを巡る戦いなど、さまざまな出来事が起こります。
1991年、国内3番手だったメガドライブは岐路に立たされた
1988年10月末に発売したメガドライブは、1990年度まで約2年をかけて、日本国内で150万台を普及させた。一方で1990年11月に発売された任天堂のスーパーファミコンは4カ月で約150万台を販売、あっという間にメガドライブと並んだ。実際、本体は発売以来店頭でも売り切れが続いており、スーパーファミコンがこのまま他を抜き去っていくことは明白だった。
1991年の日本のゲーム市場は、急速に市場は縮小しつつも未だ存在感のあるファミコン、ファミコン市場をそのまま受け継いでいったゲームボーイ、そして新たな主役・スーパーファミコン、これら3種のゲーム機が中心になっていく。
それに次ぐのはPCエンジンだ。本体はもちろん、高額なCD-ROM2システムも発売から2年が経ち、この春時点での出荷実績は50万台。一定の市場を確立していた。ソフトまでそろえると10万円近くするCD-ROM2がここまで普及したのは、この89~90年という時期がちょうど日本のバブル経済の時代と重なっていたことも関係しているだろう。
となると、日本では3番手どころかそれ以下のメガドライブが、どのように市場で存在感を示せるのか、1991年の活躍が今後のメガドライブの命運を左右していた。その先鋒となったのが、3月に発売されたRPG『シャイニング&ザ・ダクネス』である。
『シャイニング&ザ・ダクネス』
©SEGA
1990年のナンバー1ソフトは間違いなくファミコンでエニックスが発売した『ドラゴンクエストⅣ 導かれし者たち』だったが、このゲームのチーフプログラマの一人であった内藤寛氏が、アシスタントプロデューサーだった高橋宏之氏を誘い独立。ライバル機であるメガドライブ向けのRPGを開発するという発表会をセガが行ったのは、ソフト発売から半年後、スーパーファミコン発売2カ月前の昨年9月だった。
1990年秋の「シャイニング&ザ・ダクネス発表会」(画像提供:セガ)
これは「任天堂VSセガ」という挑戦的な報道記事もあって話題となり、発売日の朝の店頭にはメガドライブでは初めて購入を求める行列ができたという。すべての画面を主観視点で描くという、今では当たり前だが、2D時代には非常に斬新だった演出技法も評価され、『シャイニング&ザ・ダクネス』は業界でも一定の評価を受けた。
内藤氏らが興した開発会社のクライマックスは、1年後の1992年の3月には続く『シャイニング・フォース〜神々の遺産〜』をリリース。SLG色の強いこのRPGは、全世界でさらなるヒットとなり、シャイニングシリーズを一気にトップブランドにした。
『シャイニング&ザ・ダクネス』
©SEGA
その一方で、セガの看板RPGだった「ファンタシースター」シリーズはというと、1990年にアーケードの開発スタッフが作った外伝的な物語である『時の継承者 ファンタシースターⅢ』以降、新作開発の話は出なくなってしまった。
しかしドラクエ、FFのヒットで一番の人気ジャンルになったRPGは、その2作とフォロワーが続々と他機種で発売されており、メガドライブはシャイニングシリーズだけでは心もとない状況ではあった。
そんなこともあってか、セガはこの年、ソフトの開発を強化するため開発子会社を次々と作る。サンリツ電気のスタッフによる新会社「シムス」、『シャイニング&ザ・ダクネス』を開発したクライマックスからの分家となる「ソニック」、そして有名PCゲームメーカーである日本ファルコムとの共同で生み出した「セガ・ファルコム」である。セガはこれらの主な子会社に新作ゲームを作らせたり移植をやらせてみたり、そしてRPGも開発させて人気ジャンルの強化を図った。
また5月には日本IBMとの共同開発による、パソコンとメガドライブの融合マシン「テラドライブ」を発売し、久々にホームPC市場に参戦した。しかしIBMとの共同開発がスムーズに進まなかったこともあり、開発が長期化。発売されたときには1世代前のCPUが搭載されていたテラドライブは、進化の速いPC市場では通用せず、発表とほぼ同時に世間から忘れられていった。
余談だが、その他セガはこの1991年の1月、アーケード用基板「システム32」をリリースしている。セガ初の32bit基板は、あの『アフターバーナー』をリリースしたXボードの2倍以上の性能というのが売りで、第1弾もわざわざ体感レースゲーム『ラッドモビール』として発売、極まったスプライト性能をアピールした。そしてこの「システム32」は、この約4年後に登場する家庭用ゲーム機「セガサターン」の基礎となっている。
セガの看板タイトル『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』
一方で、世界情勢を見ると、北米市場ではやはり任天堂が圧勝状態だった。北米版メガドライブ「GENESIS」は、発売から2年経った6月時点で140万台。残り半年の91年中に200万台を目指すとしたが、3000万台到達も時間の問題となっていた王者NES(北米でのファミコン)の一強状態だった。
そこへいよいよ北米にもスーパーファミコン「SNES」がやってくる。SNESは7月の発売を予定しており、年内250万台を販売目標としていた。NESの3000万台には今さら勝つことはできないが、世代交代が行われる16bit市場で、いち早く伸びたハードが未来の市場を獲得できる。SNESのやってくるこの1991年がGenesisの正念場であった。
GenesisのアドバンテージはSNESよりも2年早く発売していることだ。100種類を越えるソフトウェアはもちろん、価格でも勝負ができる。任天堂は発売時にSNESとマリオワールドのセットを200ドルで販売すると発表したところ、即座にセガは190ドルだった本体を150ドルへと値下げした。そしてこのときに本体に同梱するソフトも新作に切り替えた。それが『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』だ。
『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』
©SEGA
今もセガの先頭を走り続ける『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』は、この1991年に誕生した。メガドライブの初期1年で3本のゲームを次々に開発した、セガきってのプログラマである中裕司氏に、デザイナーの大島直人氏、そして若手プランナーの安原広和氏の3人が中心になって開発したアクションゲームだ。
「ポストマリオ」という、一見無謀ともいえる高い目標を立てて作られたこのゲームは、中氏が『大魔界村』の開発経験で磨いた横スクロールアクションに、スピード感や、拡大縮小機能演出をプラス。そこへ大島氏によるユニークなキャラクター、安原氏によるステージギミックのおもしろさが上手にマッチし、セガのアクションゲームの完成形ともいえるものになった。さらにアルバムがミリオンセラーになっていた人気グループ、DREAMS COME TRUEの中村正人氏による軽快でメロディアスな音楽が加わり、これまでのセガにはない、垢ぬけたポップなゲームが誕生した。
セガは日本でもこのソニックを宣伝するために、ゲームセンターでブームの兆しを見せていた「UFOキャッチャー」の新型機「NEW UFOキャッチャー」の筐体に、このソニックのイラストをプリントし、作動中のBGMをソニックのゲーム音楽にしたり、前述のシステム32の『ラッドモビール』のゲーム内にソニックを忍ばせるなど全社を挙げてアピールを行った。しかし日本以上にソニックの可能性を見出したのは北米だった。
北米セガは、「ポストマリオ」としてソニックが盛り込んでいた「スピード感」を重視し、SNESの発売に合わせて挑発的な比較広告を打った。これまでの北米でのGENESISのプロモーションは、ゲームの看板になっている有名スポーツ選手やタレントなどが中心で、それ以外は『獣王記』や『ゴールデンアックス』のような肉体派キャラクター、あるいは『トージャム&アール』のような特定の層にアピールする珍妙なキャラクターで推しており、マリオのように誰でも親しみやすく、かつクールなキャラクターを日本以上に欲していたのだ。
©SEGA
ソニックをマリオに挑戦させるCMは、ちょっと生意気に見えるソニックのキャラクターと相まって、日本以上に海外で受け入れられブームとなった。市場では圧倒的な差を見せていた任天堂とセガなので、任天堂にしてみれば、象に蟻がかみついたくらいのイメージだったかもしれない。しかし結果としてGENESISは、計画を大きく上回る160万台が販売され、2年かけて売った数以上の台数を半年で売り切り、合計で300万台となった。
もちろんクリスマスシーズンは、SNESも大ヒット。年内だけで北米で210万台が売れたが、夏に目標としていた250万台には届かず、年明け早々に価格を180ドルへと下げてライバルに対抗した(SNESはコントローラが2個、GENESISは1個だったので30ドルの差はほとんどないとしていた)。この91年末時点での北米の次世代機シェアはGENESIS(メガドライブ)が61%、SNES(スーパーファミコン)が30%、TG-16(北米のPCエンジン)は9%だったという。
バラエティ番組『しくじり先生』で有名になった、クリスマスシーズンに本体を空輸して、ケネディ空港がいっぱいになったというエピソードは、この1991年末のことである。なお、当然高い輸送費は利益を削るので、このときセガの利益まったくなかったはずだが、とにかく今は相手よりも1台でも多くの本体を普及させシェアを獲得する必要があったのだ。
余談だが、8bit時代のセガハードのマスコットといえるキャラクター「アレックスキッド」を生み出したオサールコウタこと林田浩太郎氏に、ソニックがヒットしてセガの看板キャラクターになったことをどう思ったかを、以前聞いたことがある。彼は「当時、僕は彼らの上司だったんだよ。だからある意味僕だって、ソニックの生みの親のひとりさ」と笑って答えた。
一方、前年にデビューしたばかりの欧州で、セガはイギリスのヴァージン・グループが展開していた家庭用ゲームソフトの各販売子会社を買収し、欧州販売を強化した。『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』は北米のみならずイギリスを中心に欧州でもヒットし、最終的に1991年だけで全世界で200万本を売ったという。これはこの年最も売れたゲームソフトだったということである。
ちなみに欧州ではメガドライブだけでなく、8bit機のMASTER SYSTEMもこのタイミングでヒットするのだが、その話はまた別の機会に譲ろう。
メガCD VS PCエンジンDuo……CD-ROMを巡る戦い
1991年は、もう一つの戦いも始まっていた。CD-ROMである。世界初のCD-ROMのゲームシステム「CD-ROM2」をPCエンジンが発売したのが1988年末だったが、この年の6月、ついに任天堂とセガは、それぞれCD-ROMドライブを発表した。
この2年半の間、PC市場では1989年に富士通のFM TOWNSやNECのPC-8801MCなどCD-ROMドライブ搭載のホビー色の強いパソコンは発売されていたが、やはり値段がネックとなっていた。セガもメガドライブの発表時はフロッピーディスクドライブの発表をしていたくらいで(結局未発売)、まだCD-ROMについては意識していなかったが、その後PCエンジンの成功や540MBの大容量が魅力で、研究を進めていたのだ。
最初に発表を行ったのは任天堂だった。6月になってオランダのフィリップス・エレクトロニクスとの共同開発により、スーパーファミコンのCD-ROMシステムを発売すると突如発表したのだ。まだ発売から半年ほどしか経ってないスーパーファミコンの追加ユニットの登場は、CD-ROMというハードが一過性のものではなく、将来的にも明るいものであるということを示していた。
ところが、その直後にソニーから、やはりスーパーファミコン用の別のCD-ROMドライブを発売するという発表がされる。1つのハードに互換性のない2種類のCD-ROMドライブが出るのかと、この発表は混乱を呼ぶことになった。結局スーパーファミコン用のCD-ROMシステムは、詳細が不明のまま発売を延期し続け、発売されることなく終わる(そして3年後、ソニーは自社独自のゲームハードへと進化させ、セガ、任天堂に対抗することになる)。
任天堂のすぐ直後にセガが発表したのは「メガCD」であった。発表時は秋とした発売日は結局12月になったが、なんとか年内発売を実現した。メガCDの特徴は、ただ単純にCD-ROMドライブを追加しただけではなく、機能拡張を多数組み込んでいたことだ。まずメガドライブ本体よりも高速の68000CPUを新たに搭載。さらに回転・拡大縮小機能やPCM8音のサウンドを搭載し、スーパーファミコンとの機能面での差と言われていた弱点を補った。
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メガCDの発表会で展示されたスペック表(画像提供:セガ)
メガCDは発表直後の東京おもちゃショーで実機が展示された。この商品の最大の問題はPCエンジンと同じく価格で、本体の2倍以上となる4万9800円だったことだ。メガドライブ本体と合わせると7万円を越える。
PCエンジンCD-ROM2の当初の合計金額よりは安いと思った矢先、PCエンジンはこの6月のおもちゃショーのタイミングで、CDドライブ一体型の新型機「PCエンジンDuo」を発表。値段は5万9800円と、メガドライブの合計金額よりも1万円以上安い。
さらにPCエンジンは「スーパーCD-ROM2」システムも発表した。当初から少ないと言われていたRAMの容量を4倍の2Mbitまで増やすことで弱点を補い、今後は専用ソフトでCD-ROMの移行を進めるというものだった。移行には9800円の新しいシステムカードを購入する必要があるのだが、Duoにはそれが内蔵されている。ファンは6万円の本体も、約3万5000円の値下げとみなして歓迎し、Duoは日本でのPCエンジン普及のはずみを付けた。
なおスーパーCD-ROM2のローンチタイトルは、日本ファルコムのRPGをハドソンが移植した『イースⅠ・Ⅱ』のコンビ再びという『ドラゴンスレイヤー 英雄伝説』や、日本テレネットの新作RPG『天使の詩』と、やはりオーソドックスなRPGであった。
さらにPCエンジンの年末は、これまで家庭用では任天堂ハードオンリーを守ってきたコナミがついにPCエンジンに電撃参入。人気ゲームの『グラディウス』と『沙羅曼蛇』を発売し、大いに話題となった。
一方メガCDはというと、メガドライブの本体発売時と違い、多くのサードパーティーに支えられたものの、同じ月に発売されたタイトルはわずかに6本。ゲームアーツの歴史SLG『天下布武』という、CDならではのタイトルもあったものの、アクションがメインで、RPGは『惑星ウッドストック ファンキーホラーランド』1本。それも発売を間に合わせるための見切り発車と思えるボリュームのソフトで、発表時に語られていた夢のスペックを生かしていると思われるソフトはほとんど見当たらなかった。しかも本体の製造数もほとんどそろえられなかったようで、3年前の本体以上に静かなスタートを切った。
ただ、日本のメガドライブもカートリッジソフトは『ソニック』『シャイニング』以外も充実しており、年間を通じて話題作が続いた。あの『スーパー大戦略』をセガが独自進化させ歴史SLGとした『アドバンスド大戦略 ドイツ電撃作戦』、『ソニック』と同時期に発売されたベルトスクロールアクション『ベア・ナックル 怒りの鉄拳』、『ヴァーミリオン』のスタッフによるカルトRPG『レンタヒーロー』などがこの年に発売されている。
『アドバンスド大戦略 ドイツ電撃作戦』
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ORIGINAL GAME ©SystemSoft Alpha Corporation
『ベア・ナックル 怒りの鉄拳』
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『レンタヒーロー』
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サードパーティータイトルも、ナムコの『レッスルボール』や『ふしぎの海のナディア』、メサイヤの初代『ラングリッサー』など、移植ではないメガドライブオリジナルの話題が続いた。また大手メーカーでは光栄が新たに参入し『信長の野望 武将風雲録』と『三國志Ⅱ』を移植するなど、すそ野も広がっていく。1991年末を待たずして日本でのメガドライブもようやく200万台を突破。市場で一定の存在感を残すことができた。
とはいえ日本では予想どおりスーパーファミコンは圧倒的な普及スピードで、ソフトも春に見事なアレンジが話題となったSLG『シムシティ』、夏にスクウェアの人気RPG『ファイナルファンタジーⅣ』、秋にカプコンの家庭用オリジナル新作となったシリーズ第3作『超魔界村』、冬にはシリーズの人気を決定づける『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』など、常に話題作が投下された。スーパーファミコンは1991年末までに400万台近くが出荷されたとされ、1年でメガドライブのほぼ倍の市場が生まれていた。
いわゆる日本の景気が大幅に後退し、その後30年下降を続けるきっかけとなる「バブル崩壊」はこの1991年から始まっていたのだが、一般人にとって好景気の余韻はまだあり、TVゲーム業界はまだまだ拡大していくように見えた。
奥成洋輔(おくなり・ようすけ)
1971年生まれ。1994年に株式会社セガ・エンタープライゼス(現・セガ)入社。2000年DC『エターナルアルカディア』でアシスタントプロデューサーを担当、2004年にPS2『サクラ大戦V EPISODE 0 ~荒野のサムライ娘~』を初プロデュース。2005年以降旧作の復刻を数多く手掛ける。最新作は『メガドライブミニ2』。その他主な作品にニンテンドー3DS「セガ3D復刻プロジェクト」シリーズ、『メガドライブミニ』(初代)『ゲームギアミクロ』など。
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