• 奥成洋輔

セガサターンとふり返るあの時代① セガサターン発売

■執筆者 奥成洋輔さん

#連載 #セガ #セガサターン



日本のゲーム史において、世代が変わるたびに何度も行われてきた家庭用ゲーム機のシェア争い。中でもソニーの「プレイステーション」とセガの「セガサターン」による争いは「次世代ゲーム機戦争」と呼ばれ、最も白熱した戦いが繰り広げられた。この連載では、長年独自ハードを開発・販売し、業界をけん引してきたセガにあえて焦点を当て、当時の状況をふり返ってみたい。執筆をお願いしたのは、この2ハードが発売された1994年にセガへ入社した、現役セガ社員の奥成洋輔さんだ。現場ではどんな思いで戦争を戦ってきたのか!? 全5回に渡ってお届けする。


次世代ゲーム機戦争 開戦前夜

 僕が大学を卒業しセガに入社したのは、今から30年近く前となる1994年。あの「次世代ゲーム機戦争」の開戦した年だ。この年の年末は、ソニーが初めて家庭用TVゲーム機に参戦した初代「プレイステーション」が発売され、そしてその10日ほど前に、セガは6番目の家庭用TVゲーム機「セガサターン」を発売した。


 ほかにも松下電器(パナソニック)の「3DO」やNECの「PC-FX」がこの年に発売されている。当時の覇者であった「スーパーファミコン」を擁する任天堂への挑戦権を、いったいどのメーカー(ハード)が得るのか!?というのが、当時のゲームファンの話題の中心だった。そして、今では信じられないかもしれないが、春の時点でのレースのオッズは「セガが本命」と言われていたのだ。


 この頃のセガがどういうポジションにあったかを軽く説明しよう。1983年に、任天堂の「ファミリーコンピュータ」の発売日と同日に、セガは「SG-1000」というハードで家庭用ゲーム機市場へ参入した。SG-1000は社会現象となったファミコンの追い風に乗ってそれなりの成功を収め、事業を継続することになった。


 自社が持つアーケード向けのノウハウを活用したセガは、少しずつシェアを拡大していく。5代目の「メガドライブ」は、日本ではNECの「PCエンジン」に続く3番手のポジションだったものの、北米・欧州など海外市場では、王者である任天堂の「スーパーファミコン」と互角の対決をしており、事実上の世界ナンバー2にまで成長していたのだった。



当時のセガの開発体制


 僕がセガに入社したこの春は、ちょうどメガドライブに人気シリーズの最新作『ソニック・ザ・ヘッジホッグ3』が発売された直後で、世界規模では過去最高の盛り上がりを見せていた。欧米ではこのメガドライブの好調を持続させスーパーファミコンとやりあいつつ、日本では先行して次世代機セガサターンを発売することで次の市場を確保し、日本でも勝利を収めて世界一を狙う、というのが当時のセガの筋書きだった。


 そして僕はプランナーとして、第1コンシューマソフト研究開発部(CS1研)という部署に配属となった。「コンシューマ」とは家庭用のこと。当時セガには家庭用だけで開発部署は6つあり、第1と2が次世代機セガサターン、第3と4がメガドライブおよび追加パワーアップユニットの「メガCD」と「スーパー32X」、そして第5が携帯ゲーム機「ゲームギア」のソフト開発を行うところだった。それに加えて、RPG制作部という人気ジャンルに特化した専門部隊も置いていた。


 さらにゲームセンター向けのアーケードゲーム開発を主とする部署が7つあり、特に1993年に『バーチャファイター』をリリースした第2アミューズメント研究開発部は「AM2研」という名で、特別な存在になりつつあった。これに海外子会社にある開発部署も含めると、優に1000人以上の開発スタッフがいたはずだ。おそらく当時では日本どころか世界で最も開発スタッフの多い会社だったかもしれない。


 さて、その中でもCS1・2研(部署的にはほぼ融合していた)は特に大きな部署だった。最も大きなプロジェクトはセガサターンの新作シューティングゲーム『パンツァードラグーン』で、常時30人くらいのスタッフが参加していたと思う。当時メガドライブで10人くらい、ゲームギアなら5人くらいで作っていたはずなので、セガサターンになって、ゲームの規模がどんどん大きくなっていった。


『パンツァードラグーン』

(C)SEGA


 セガというと「CSとAMは別の会社のように交流がない」などという人もいるが、セガサターンの開発スタッフを見回すと、AM部門出身のスタッフがいっぱいだ。セガサターンの高度なゲーム開発のために皆で異動してきたのだ。そしてCSのメンバーと混成して、数百人でセガサターンのタイトルラインナップを開発していた。


 春の時点でセガサターンは、100%の性能が出せる開発機はなく、30%くらいの性能しか出せない初期の開発機と、70%くらいの性能が出せる試作機しかなかったが、6月の「東京おもちゃショー」(この頃はまだ「東京ゲームショウ」はなく、家庭用TVゲームのイベントといえばおもちゃショーだった)での展示に向けた準備を進めていていた。


 入ったばかりの私には、それが順調なのかどうかはわからなかったが、目の前で作られているゲームたちが発売される頃には、セガサターンは日本で天下を取るのだと確信していた。ライバルを見てみると、先行発売した松下電器の3DOは、高額な値段と強力なオリジナルゲームがないこともあって苦戦を強いられていた。松下がダメなのだ。ソニーのプレイステーション(当時は「PS-X」と呼ばれていた)もおそらく同じ道をたどるに違いない。


 そもそもソニーが最近発売したゲームは、雑誌の人気ランキングでも下位中の下位だった。最後のNECについては、PCエンジンは日本では一部ですごく人気があったが、その結果軸足がまだそちらにあり、少なくともPC-FXには本気さをあまり感じなかった。これなら今度は勝てそうだ。



プレイステーションの衝撃


 そんな世の中の空気が一気に変わったのは、5月にソニーが行った発表会だった。「プレイステーション」という正式名称や本体デザインの公表とともに公開された実機映像は、業界だけでなく、すべてのゲームファンに衝撃を与えた。


 発表会では開発中の新作ゲームの映像は1つもなかったのだが、その代わりに3Dで描かれたT-REX(ティラノサウルス)がリアルタイムでアニメーションしているデモンストレーションが公開され、その映像のリアルさに皆は魅了されたのだ。そしてそれに続く多数の参入メーカーの発表。このT-REXみたいなすごい映像を、これだけたくさんのメーカーがゲーム化するのかと、たった恐竜1匹でソニーは、ゲームファンの心をつかんだ。


 この時代の少し前まで3D CGといえばソリッドな板や線の組み合わせによる、紙工作で作ったような画像で、とても一般向けとはいえなかった。その認識が1993年になって大きく進化する。この夏に公開されたハリウッド映画『ジュラシック・パーク』だ。劇中に登場する恐竜の多くが、本物そっくりの3D CGで描かれていて、現実ではありえない映像が作れることを皆が知った。


 そして秋にはアーケード向けで、ナムコがテクスチャーマッピング技術により美しいグラフィックで魅せるレースゲーム『リッジレーサー』を、セガが人気ジャンルの対戦格闘ゲームを3Dで開発した『バーチャファイター』をリリースし、どちらも翌年にかけて大きなヒットを遂げた。


 そこにきて、このプレイステーションのデモンストレーションだった。『リッジレーサー』のようなグラフィックスで描かれた、『ジュラシック・パーク』さながらのT-REXが、美しいアニメーションで歩いているのだ。当時のゲームファンは「去年映画で見た映像が、年末のプレイステーションを買えば家でゲームとして楽しめるのか!」という衝撃に繋がったのだった。


 実はプレイステーションのお披露目は、ここからさらに半年前にクローズドで行っていたらしい。もちろんそれよりもさらに前からも交渉はしていたそうだが、最初は皆3D CGのゲーム開発のイメージがつかめず、あまり良い顔はされなかったそうなのだ。しかし『リッジレーサー』や『バーチャファイター』の発売直後のタイミングで行われたこの会は盛況で、プレイステーションはこのときに多くの参入メーカーを増やしたとのことだ。


 当時3D CGというのはハードウェアもソフトウェア的にも非常に高度な技術であり、逆に言えばゲーム業界でも大手であるナムコやセガを除く多くのメーカーでは、すぐに手を出せるような一般的な技術ではなかった。ところが、このプレイステーションなら、それができる。今3D技術を学ばずして未来のゲーム業界では生き残れない、と察した多くのゲームメーカーは、このソニーの新ハードに飛びついたのだった。奇しくも『バーチャファイター』の大ヒットが、セガの新たなライバルを生み出す結果となったのだ。そしてこの5月の発表会で発表されたタイトルの中には、あのナムコの『リッジレーサー』の名もあった。



迫る発売日、切迫するソフト開発……


 このライバルの巨大な進化をセガももちろん認識していたが、今もっとも人気のあるゲーム『バーチャファイター』を擁するセガサターンの優位は揺るがないと思っていた。開発スタッフは、今はとにかくゲームをセガサターンの発売時期に間に合わせることを考えて仕事を進めていた。


 余談だが、僕と同期入社したデザイナーの酒井智史は、プログラマと共謀して、こっそりサターンの開発機で「恐竜デモ」そっくりのサンプルを作ってしまった。「あのくらいセガサターンでもできる! しかもこっちは火も吐くぞ!」と、彼がボタンを押すと、口からT-REXが火を吐いた。彼は無類の怪獣ファンでもあったのだった。のちにこのT-REXは翌年『ワールドアドバンスド大戦略』の隠しキャラクターとして実際にゲーム中にも登場した。


 話を戻すと、翌月の6月に開催された「東京おもちゃショー」で、今度はセガサターンが公開された。こちらは開発中ゲームを実際に触れられる実機展示である。目玉はもちろんあの『バーチャファイター』だ。


 来場したファンはさっそくサターンに飛びついたが、そこはまだ初めての展示。一見完成しているようにも見える『バーチャファイター』の2体のキャラクターは、多彩な技を繰り出すことができたが、向かい合っておらず、対戦はできなかった。『デイトナUSA』 の車は何もない地平線を走ることだけ。唯一ゲームとして遊べたのが『クロックワークナイト』だったが、2D横スクロールアクションだったので、次世代機らしい雰囲気はいまひとつだった。それでもセガとしては、実機で展示することに意義があると考えていた。


 なお参入メーカーも多くが発表されたが、プレイステーションよりは少なめで、タイトル未定のものが多かった。半月後、アメリカでとうとう任天堂が次世代機(後のニンテンドウ64)を発表した。ただし発売は来年とのことで、世間の評判はプレイステーションとセガサターンに二分された。


1994年6月の東京おもちゃショー

(画像提供:セガ)


『バーチャファイター』をプレイする来場者

(画像提供:セガ)


 セガサターンの二度目のお披露目は3カ月後、9月のアミューズメントマシンショーで行われた。元々アーケード向けの展示イベントだが、家庭用もブースの一部を使って紹介されていたのだ。ついに『バーチャファイター』がほぼ完成状態となり、対戦も可能になり、発売を待つばかりとなった。さらに新作として『パンツァードラグーン』もプレイアブルで出展された。


 しかし、このショーの話題の中心は、アーケードの最新作『バーチャファイター2』だった。大きく進化した2の存在は、ライバルどころかセガサターンすら吹き飛ばしかねない勢いを持っていた。セガは同日セガサターンへの『バーチャファイター2』の移植も発表する。


 発売日が近づくにつれて、セガサターンのソフト開発の遅れは少しずつ現実的になってきた。『パンツァードラグーン』は早々に春へと延期していたが、本体と同時予定だった『クロックワークナイト』は完成度が上がらず、ついに課長自らが大なたを振るい、すべてのステージデザインを作り直し、数を半分に絞って、上下巻の二部構成にすることを決断する。


 結局発売日に間に合ったセガのゲームはAM2研自らが移植した『バーチャファイター』で、CSで発売日に間に合ったのは外注開発のアドベンチャーゲーム『ワンチャイコネクション』のみ。他サードパーティーも含め1994年内には8タイトルがリリースされた。一方10日後に発売されたプレイステーションは発売日に8本、年内に計17本がリリースされた。


1994年9月のアミューズメントマシンショー

(画像提供:セガ)


アーケードの最新作『バーチャファイター2』には人だかりが

(画像提供:セガ)



いよいよ発売! 最初の年末商戦の行方は


 さてこの1994年の日本の年末商戦は、どんな結果になったか!? 実は数だけで言えば王者スーパーファミコンだ。任天堂の新作『スーパードンキーコング』は数百万本を売り上げ、ハードも多くを販売した。しかし、ムードという意味では、次世代機は別格だった。任天堂への挑戦権を得るための対決は、いつしか「次世代機でのナンバー1争い」となり、セガ対ソニーの対決色が濃厚になる。


 そしてこの「次世代ゲーム機戦争」第1ラウンドは、セガサターンとプレイステーションが、ほぼ互角の対決をした。プレイステーションは30万台、セガサターンはビクター製のセガサターン互換機「Vサターン」と2種合わせて50万台を売り切った。94年末はまだ出荷されたハードの数も少なく、「あるだけ売れた」と言われている。


 社内での噂だが、この年の『バーチャファイター』のソフトの販売本数は、セガサターンの本体の数を越えたらしい。本体を買うことができなかったファンが、とにかくソフトだけでも持っておきたくて、気持ちを抑えられずに買ってしまったのだろう。


『バーチャファイター』

(C)SEGA


 さて、僕は給料を貯めた資金で、Vサターンと、メガドライブの次世代パワーアップユニット「スーパー32X」に使った。メガドライブをパワーアップするために開発されたパワーアップユニット32Xは日本ではプレイステーションと同じ日に発売され、年内に『バーチャレーシングDX』ほか4本のゲームが発売された。


 32Xと同時発売された『スペースハリアー』の完全移植版も、アーケードの移植である『スターウォーズ・アーケード』もすばらしかった。やはりアーケードゲームの移植を遊べるのが楽しく、その上で新旧の移植ゲームが遊べる32Xは最適なハードだった。そのためサターンのソフトで買ったのは『バーチャファイター』だけだった。


 地元の親しい友人はプレイステーションを買って、『リッジレーサー』をずっと遊んでいた。1年前にリリースされた人気の最新アーケードゲームが、2つのハードを引っ張ったのだ。その一方で友人はほかにも『A IV』や『麻雀ステーションMAZIN』を購入し、今まで見たことのない3D演出のゲームを楽しんでもいた。プレイステーションにもアーケードゲームの移植はあったが、むしろ目立ったのはオリジナルゲームが3DCGの演出で魅せる斬新さだった。


 ゲームの歴史が変わってきていた。

奥成洋輔(おくなり・ようすけ)

1971年生まれ。1994年に株式会社セガ・エンタープライゼス(現・セガ)入社。2000年DC『エターナルアルカディア』でアシスタントプロデューサーを担当、2004年にPS2『サクラ大戦V EPISODE 0 ~荒野のサムライ娘~』を初プロデュース。2005年以降旧作の復刻を数多く手掛ける。主な作品にニンテンドー3DS「セガ3D復刻プロジェクト」シリーズ、『メガドライブミニ』『ゲームギアミクロ』など。

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