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  • 執筆者の写真鶴岡眞屋子

【校正・校閲の世界】あなたの文章から間違いをなくそう②

更新日:2022年4月29日



鷗来堂の鶴岡眞屋子さんによる校正・校閲の世界。最終回は前回に続き、あなたの文章から間違いをなくす方法について。事実確認や差別・不快表現を中心に書いていただいた。言葉には強い力がある。気軽に発信できるようになった分、自分の発する言葉に注意を払いたいところだが……?



事実確認に使えるサイト、使えないサイト


 早いもので最終回です。ここまで続けて読んでくださっている方、まことにありがとうございます。


 前回は素読み的な観点について触れました。今回まず扱うのは「事実確認」です。「フェイクニュース」が流行語になり、「ファクトチェック」という言葉を目にする機会も増えた昨今、「発信する情報にきちんとした裏付けがあること」の重要性については改めて語る必要もないのではないかと思います。


 このとき最も気をつかうのは、インターネットにせよ書籍にせよ、「何を資料とするのか」ということだと第1回で書きました。さて、ではどんな情報源がよくて、どんな情報源はだめなのでしょう。


 校正者としての基本セオリーを言うならば、まず「公的機関、企業や団体の公式サイト」「大手出版社の百科事典」のように、「信頼できる(≒公的権威がある)発信元」の情報がベストということになります。いくらくわしくても、また実際に正しいとしても、無名の個人が運営しているサイトなどは資料としては不適当ですし、発信元がはっきりしないものは論外です。個人サイトでも、たとえばプロフィールを公開している大学教授の運営サイトなどは信頼性が高いとされます。


 Wikiのたぐいも日常生活では非常に便利ですが、不特定多数が編集できるので「閲覧したときに間違った情報に書き換えられている」可能性があり、校正者の事実確認に「直接は」使えません。ただ、しっかりした記事なら情報の出典へのリンクがそろっているので、リンクポータルとして活用できる場合があります。


 発言や記述などの引用を確認する場合には、もちろんそのオリジナルの発言・記述(一次資料)がいちばんの情報源になります。原典にまでさかのぼらず、それを引用している著作などに当たるのはあまりよくありません。ただ、どうしてもいい資料に当たれないけれども疑問がある、という場合などは、引用資料やWiki資料を、あくまで参考として示すこともあります。



信頼性とは?


 ……というのが職業校閲においての基本ルールですが、ちょっと疑問を覚えた方もいるかもしれません。


 厳密に考えれば、「発信者に権威がある」から「情報が正しい」、とは言い切れません。公的な文書でも、大事な数値が誤植で間違っている可能性はあります。実際、資料価値があるとされるサイトや書籍での誤植事例を目にすることもたびたびです。正しいとされていた「事実」が何かの拍子にひっくり返ることさえありますね。100パーセント確実な情報というものはこの世にないのです。


 では、情報の信頼性とはなにか。これは私の考えですが、「これってホント?」と聞かれたときに、「○○にそう書いてあったもん」と胸を張って答えられるか、ということではないでしょうか。


「公式サイトに書いてあったもん!」なら、たとえ後日誤りだったとわかってもまあ仕方ない気がしますが、「ネットの掲示板に書いてあったもん!」だと、最初からちょっと信憑性が怪しいですよね。また、「○○にも××にもそう書いてあったもん!」と、複数出典を挙げられればさらに確からしい気がします(ひとつのソースに限らず、複数の情報源に当たるというのはファクトチェックの基本手法です)。信頼性、なんて仰々しくて気後れしてしまうという人は、これをひとつの基準にしてみてはいかがでしょうか。



差別・不快表現をうっかり使わないために


 最後に、校閲をするうえで欠いてはいけないのが、「差別・不快表現」に関する視点です。差別的な表現の使用は、たとえ演出上の意図的なものであっても、読者に悪印象を与えるだけでなく、クレームや回収といった事案にも繋がりかねないため、神経を尖らせます。著者さんや編集者さんに判断を仰ぎ、万が一の間違いを防ぐという立場上、校正者は過敏なくらいでちょうどよいかもしれません。


 とはいえ、では差別語と呼ばれるものにはどんな語があるか、どんな概念が差別にあたるとされるか、などの具体的な内容について考えていくと非常におおごとになってしまうので、この場では「まずい表現になっていないか確かめる読み方」について、少し触れるだけにとどめます。くわしく知りたい方は「差別表現 本」などで検索してみてください。


 多くの校正者が差別表現の見つけ方について習うであろう手法は、「弱者(マイノリティー、被差別者)の視点で考えてみること」でしょうか。これでもいいのですが、私は少しずらして、「たちの悪いクレーマーの視点で考えてみること」としています。


 身も蓋もない言い方ですが、残念ながらあなたの文章を目にする人の中には、あなたと相容れない思想を持ち、かつ攻撃的な方々が、あなたが思っている以上に必ずいます。そういう方々に付け入られる隙がありそうな表現は、たちが悪くない方々にも誤解を与えかねない表現であることが多いです。


 本当に今の表現でいいのか。自衛のためにも、そしてあなたの文章を読む方々に無用な誤解を与えないためにも、一度思い切って自分の対極に置いた視点から、文章を確かめてみるというのは有意義なことだと思います。



それでも誤植はなくせない?


 校正・校閲の基本的な考え方(の、あくまで一例)について、数回に分けて綴ってきました。これからも無数の文章を書いていくあなたにとって、少しでも役立つ視点があったなら幸いです。


 我々の意思伝達の重要な手段である言葉、それが織りなす文章において、誤りはもちろんないに越したことはありません。私たち校正者も、誤植の1つでも少ない世の中を目指して日夜働いています。


 でも、たとえばある本が世に出るまでには、著者が何度も推敲し、編集者が入念に確認し、さらに我々のような職業校正者が初校、再校と数人がかりで懸命に読みます。それでも当たり前のように誤植は残り、世に放たれ、日夜SNSで拡散されて笑いと冷や汗を振り撒くのです。時にはそれが、ある種の娯楽文化になったりもします。誤植は私たちの困った隣人でライバルですが、もしかしたら友人になれるかもしれない存在のような気がします。


 間違いは誰にでも起こり得ます。間違ってしまったならば真摯に訂正し、気付いた人はあげつらうのではなく、やさしい気持ちをもってそっと指摘する。そんな相互の思いやりをもって、人がコトバと歩んでいける、そんな社会になるといいなあと思いながら、今日も小さい「ば」と「ぱ」の違いに目を凝らしています。

 

鶴岡眞屋子(つるおか・まやこ)

1992年2月生まれ、東京出身。株式会社鷗来堂 校閲部校閲室所属(2014年入社)。「文章」にこだわりを持つ自閉症スペクトラム。小説作品、教科書などの校正・校閲のほか、VBAマクロなど、社内向け小規模システムの開発も担当。

http://www.ouraidou.net/

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