
2022年に当サイトで連載した「クラフトビールの現在地」。あれから2年が経ち、クラフトビールを取り巻く環境も変化しました。そこで、クラフトビール中心の総合ドリンクマガジン「CRAFT DRINKS」を運営する沖俊彦さんにお願いし、世代交代・事業承継やマーケティング手法、Z世代の嗜好などのトピックを通じて今のクラフトビールを解説していただきます。初回は「インバウンド消費と日本らしさ」。増加する訪日外国人が求める「日本らしいもの」「日本ならではのもの」とは? 日本らしいクラフトビールとはいったい何か? クラフトビールをきっかけに日本について考えます。
インバウンドで直面せざるをえない「らしさ」にまつわる問題
現在円安が続いており、輸入に多くを依存している日本では、さまざまなものが値上がりしています。近所のスーパーマーケットを覗いてみても「あれ? こんなに高かったっけ?」と思うことも少なくありません。可処分所得の増加も追いついておらず、家計直撃でなかなか厳しい状況が続いています。内需が大半を占める日本経済は大変です。
しかし、こうした影響は負の側面だけではありません。輸出企業は為替のおかげで円換算の売上は積み増されており、過去最高益を叩き出しているところもあるほどです。裏返して考えると、交換されるドルやユーロの立場から見れば、日本は今非常にお買い得ということなのです。
そこで注目されるのがインバウンド。訪日外国人旅行者の存在です。すでに多数報道されているとおりですが、以前から日本は世界から注目される観光地で、コロナ禍で一度急落したものの2023年から訪日旅行者は激増しています(※1)。
彼ら旅行者が日本に求めるものは歴史・伝統文化体験、日常生活体験を押さえて日本食を食べることが第一位で、コロナ禍以後日本の酒を飲むことにも高い関心が寄せられています(※2)。この流れを受けて日本酒はもちろんですが、日本産クラフトビールにも大きなチャンスがあるのではないか、と期待したいところです。しかし、とある理由で私はそううまくいかないのではないかと心配しています。
※1 ビジット・ジャパン事業開始以降の訪日客数の推移
※2 観光庁 令和6年版観光白書について(概要版) P12
観光庁はインバウンド需要を取り込む施策として、地域の食材を活用したコンテンツの整備を進めています。その1つに酒蔵ツーリズムがあります。
「酒蔵自体が観光化の取組を行うことによる観光旅行者の受入整備や消費拡大につながる取組等を支援し、酒類事業者、観光事業者、交通機関、地方公共団体等が連携して、国内の酒蔵(ワイナリー、ブルワリー等を含む。)や観光資源等を巡って楽しむことのできる周遊・滞在型観光「酒蔵ツーリズム」を推進する」
このように定義していて、その対象には日本酒の酒蔵に限らずワイナリー、ブルワリー、つまりワイン、ビールも含まれると明記されています。たしかに含まれてはいるものの、ビールは少々弱く感じざるをえません。宿泊施設などの整備や観光資源化の取り組み不足ではなく、日本酒、ワインには日本ならでは特徴を客観的に示す枠組みが出来上がっているからです。言い換えれば、日本酒、ワインでは日本を味わう準備ができています。
日本酒とワインにはお酒の地理的表示(GI=Geographical Indication)が制定されています。地域の共有財産である「産地名」を守り、適切な使用を促す制度で、日本酒には灘五郷やはりまなどが、ワインには山梨や長野などがあります。ほかにも焼酎、梅酒にもGIが存在します。長い歴史に裏打ちされた伝統や固有品種の使用による特徴があるわけではないビールにGIが適用されないのは残念ながら仕方ありません。
日本酒ほど歴史がなくても「ほかでもなく、日本のものである」という認証をしていく動きが見られます。近年世界的に評価の高いジャパニーズウイスキーです。日本洋酒酒造組合という団体が2021年に自主基準として「ウイスキーにおけるジャパニーズウイスキーの表示に関する基準」を発表しました(※3)。
(※3)日本洋酒酒造組合 https://www.yoshu.or.jp/pages/121/
三郎丸蒸留所の稲垣貴彦氏が指摘するように、この背景にあるのは「ジャパニーズウイスキーの需要が急増するに従い、ウイスキー製造免許さえあれば、バルクウイスキー(筆者注:輸入された海外産ウイスキー原酒のこと)を使った製品を自由に商品化できる」ことと、「酒税法等のルールの緩さから、産地誤認になりかねない事例が出てきたこと」(※4)があります。中身は外国産だけれども、漢字を使った日本っぽいネーミングで販売されている低品質なものも多く、それらが日本産ウイスキー全体の評価を下げないようにするためにこのような取組みがなされているのです。
(※4)稲垣貴彦 「ジャパニーズウイスキー入門」 P98
日本らしさを見つけるのは外国人旅行者か?
ここで考えたいのは体験に関する真正性です。日本酒、ワインなどに関するGI、ウイスキーに関する自主基準はその歴史や原料、製法などを地域・国と紐づけ、その製品が真に正しいものであることを示すものです。そして、そう保証されたものを消費者が体験することで生まれた感覚をほかでもないその地域や国、もっと言えば日本らしさとつなげることが可能になります。それは日本を味わうことであり、正に観光客の求めることです。この点でビールは難しい立場に置かれていると言わざるを得ません。
ビール産業は20世紀の大量生産大量消費の形式で発展を遂げ、設備産業としての側面が強い。そして、世界の至るところでピルスナーと呼ばれる金色でシュワッとしたものが人気で、ここ日本も例外ではありません。一般的にいわゆるビールはユニバーサルなものであり、特定の国や地域を表すものではなくなりました。もちろん地域に根ざした歴史あるビールもまだあります。
しかし、ビールに歴史があってユニークであるだけでは真正性は生まれません。ユネスコ世界文化遺産に登録されたベルギー(※5)のように、そのビールを作る人、そして楽しむ人の地元コミュニティがあってこそであり、それによって文化たりえるのです。1994年の規制緩和でスタートした日本の地ビールは21世紀に入りクラフトビールとその呼び名を変えて人気を博し今に至りますが、日本においてはまだ30年しか歴史がありません。
(※5)UNESCO Beer Culture in Belgium 2016
また、拙稿「クラフトビールはどこで誰に飲まれているのか?」(※6)で指摘した通り、製造地と消費地が離れていて地域の独自性および醸成されるコミュニティを見出しにくい構造も生まれています。こうした状況で日本産クラフトビールに何かしらの真正性を感じ取れるかについて今こそ議論が必要です。
このことは広く日本らしさに関する議論となるものですが、実は旅行者にとってのものを前提とした場合、日本人に日本らしさを議論することはできないと思われます。外国の方が自国文化と日本文化を比較したとき、その差分に対して日本らしさが規定されるので、その認識の主体はあくまでも外国の方です。ですから、日本人が日本らしさを無理やり作ろうとしてもダメなのです。インバウンド旅行者が勝手に発見してしまうのが日本らしさで、そこに作為があってはオーセンティックで価値あるものとはならないでしょう。
ちょっと難しい説明をしたのでもう少し身近な例を挙げましょう。国と国の比較という構造を日本国内の地域に当てはめてみたいと思います。たとえば、クラフトビールにおいて東北らしさや関東らしさはあるでしょうか。東京らしさと埼玉らしさがあるとすると、それはどの点でどう異なるのでしょうか。それは単に県産品の原料を使うことではないでしょう。
この論点は非常に重要だと私は考えています。これは飲む主体である自分のアイデンティティに関わることだからです。埼玉県民だから他者に感じる東京っぽさというものがあり、その逆も然りです。日本人だから見つけられるアメリカやベルギーがあり、その鏡像として自分の内側にある日本が彫刻されていきます。これを意識することがグローバルな世界でインバウンド観光客を受け入れる日本に生まれて暮らす日本人として大事なのではないでしょうか。
先ほど日本においてはまだ30年しか歴史がないと言いましたが、ポジティブに考えれば30年「も」歴史があるとも言えます。では、この間日本のクラフトビールは世界のビールとどの部分でどんな差異を生み出してきたでしょうか。それが日本らしさかどうかは置いておいて、広く議論し一旦総括しても良い時期になったのではないかと私は思います。

沖俊彦(おき・としひこ)
CRAFT DRINKS代表
1980年大阪府生まれ。酒販の傍らCRAFT DRINKSにてクラフトビールを中心に最新トレンドや海外事例などを通算850本以上執筆。世界初の特殊構造ワンウェイ容器「キーケグ」を日本に紹介し、販売だけでなく導入支援やマーケティングサポートも行う。2017年、ケグ内二次発酵ドラフトシードルを開発し、2018年には独自にウイスキー樽熟成ビールをプロデュース。また、日本初のキーケグ詰め加炭酸清酒“Draft Sake”(ドラフトサケ)も開発。2022年には日本人初で唯一のNorth American Guild of Beer Writers正会員となり、ビール品評会審査員、セミナー講師も務め、大学院にて特別講義も。近年自費出版の形でクラフトビールに関する書籍を発行中。