ボクシングにおける最大の魅力といえば、派手なKOシーンという人は少なくないだろう。井上尚弥選手が圧倒的なパンチ力で次々に相手をKOしていくさまは、ボクシングに興味がない人をも魅了する。一方、商社マンボクサーという異色の経歴をもち、WBC世界ライトフライ級世界チャンピオンを獲得した木村悠さんは、井上選手とは違った強みをもつ。名門の帝拳ジムに所属しながら、自身に圧倒的な才能がないと気づいた木村さんは、会社員になるという一見不合理な選択をした。その結果として身につけた逆算思考は、弱者のための戦略といえるものだった。
弱者の戦略「逆算思考」は挫折から生まれた
プロ6戦目にして初めての敗北。これをきっかけに、商社マンボクサーとしての道をスタートさせました。プロボクサーと会社員の二足のわらじです。すごく遠回りに思えるかもしれませんが、当時の僕にとってはベストな選択でした。
僕が所属していたのは、帝拳ジムというエリートが集まる名門ジムです。帝拳ジムでは無敗が当たりまえでしたから、1敗というのはとてつもない重みがあります。
僕は大学時代にアマチュア日本一になり、鳴り物入りで帝拳ジムに入りました。プロ入り後は5連勝して順調でしたが、わずか6戦目で敗北を喫してしまったことになります。
ボクサーが生涯で戦う試合数は、多くて30戦。3~4カ月に一度戦うとして、10年続ける人はそう多くありません。1回負けて辞める人だってたくさんいます。
試合に負けたあと、ジムの会長に「ボクシングを続けたい」と頭を下げても、「通用しないよ」と言われたのも当然のことでした。自分でも実力不足であることは痛感していましたから、ボクシングを続けるにしても何かを変える必要があったんです。
僕は多少なりとも才能があるほうでした。でも、自分のまわりには圧倒的な才能をもった人たちがたくさんいた。たとえば、WBC世界バンタム級王者の山中慎介選手は「神の左」と称えられる武器がありました。
じゃあ、自分にはどんな武器があるのか? 天才ボクサーではないという自覚はあっても、ただのボクサーでは終わりたくなかった。自分の特性を見極めて、自分だけの戦い方ができれば、何か人と違ったことができるはずだと信じていました。
木村悠さん。1983年生まれ。第37代日本ライトフライ級王者。元WBC世界ライトフライ級王者。戦績は22戦18勝(3KO)3敗1分
日本チャンピオンや世界チャンピオンをとったボクサーがたくさんいるなかで、自分が特別なボクサーになりたいと願うなら、彼らとは違う道を進むしかない。そのためには、ボクシングの世界から外に出ることが必要だと痛感して、会社員になったんです。
僕を採用してくれたのは、電力や通信の工事設備を扱う専門商社です。担当したのは、取引先3~4社をめぐるルート営業。午前中は事務所でデスクワークをこなし、午後になると外回りです。はじめての会社員生活なのでとにかく忙しいものでした。
二足のわらじというと、どちらも中途半端になるからやめておけと言われるかもしれません。でも、違う世界に飛び込むことで得られるものはたくさんあります。
僕は会社員生活を送ったからこそ、新しい方法論を身につけ、最終的に世界チャンピオンにまでのぼりつめることができました。その方法論の下地にあるのが、逆算思考という考え方です。
ゴールを設定して、逆算して段取りを考える
会社員生活で最初に得られたのは、量より質の時間の使い方でした。僕にとってはじめての会社員生活なうえに、仕事とボクサーの二足のわらじを履くわけです。1日の使い方を徹底的にマネジメントしないと、仕事がボクシングを圧迫してしまいます。
具体的には、18時から20時までボクシングの練習をするためには、残業ゼロで仕事を終える必要がありました。そのためには1日のスケジュールをゴールから逆算して決めることが不可欠だったんです。
「ボクシングの練習をするために17時に会社を出る」。これがゴールです。そして「何時までに何をするか」を具体的に設定し、それを1つずつ着実にこなしていくわけです。
目標達成において大切なのは、ゴールから逆算して考えることによって「このとおりに実行すればうまくいく」と思われる段取りを組み上げ、それに従って動くこと。時間管理を徹底することによって、逆算で考えるクセがつきました。
どれだけ仕事が忙しくても、精神的に落ち込むことがあっても、自分で立てたスケジュールに従って動く。とてもシンプルですが、徹底できればゴールにたどりつくことができます。今やるべきことが決まっていれば、迷って立ち止まることもありません。
この逆算思考はボクシングの練習にも応用できました。試合が3カ月後に決まれば、「試合の1カ月前には10ラウンドのスパーリングをこなしたい」とゴールを設定し、2カ月前、3カ月前はそれぞれ何ラウンドこなせばいいか逆算していく。
トレーニングも1日単位で「今、何をすべきか」が明らかになるので、悩まずに練習に打ち込めるわけです。こうした時間管理が身についたのは、仕事に対する責任感のおかげだと思っています。
会社はボクシングすることを応援してくれました。とはいえ、僕は会社の正社員です。ボクシングをするのはいいけど、自分が任された仕事は責任をもってまっとうしなければなりません。
ボクシングにおいても同様で、お金をもらって戦う以上、それだけの責任をもってリングに上がらなければなりません。それは所属するジムだったり、応援してくれるファンに対する責任です。
プロになりたての選手は、プロがどういうものかわかっていないことが多い。ただ技術にすぐれているだけではダメなんです。チャンピオンになれる選手となれない選手の違いは、応援される力です。人の応援をどうやって力にするか。
その差となるのが責任感の有無だと思います。商社マンボクサーだったせいか、サラリーマンや経営者の多くに応援していただけました。会社員として責任を果たす姿に共感してもらえたのだと思います。
逆算思考は目標さえ決まれば、あらゆる場面で生かすことができる
逆算できなければ、目標は達成できない――この事実は、時間管理だけでなく、僕のボクシングスタイルも大きく変えることになります。
ボクシングには、選手によって「KOをねらう」「手数で判定勝ちをねらう」など、さまざまなスタイルがあります。スタイルは言い換えれば、目標を達成するために選手がとる手段です。
自分の目標を掲げ、そこから逆算することで、最適な手段を模索することだってできます。僕の場合、一発のパンチでノックアウトするボクシングはむずかしかった。だから、「打たせずに打ち、ボディで仕留めてTKO」がゴールになりました。
じゃあ、3分12ラウンド、36分でどう戦うべきか。まずは試合のペースをにぎり、相手のボクシングを崩して弱らせ、最終的にレフェリーストップまでもっていく。
僕は強烈な武器で主導権を握れるタイプではなかったので、相手の出方によって戦い方を変える必要がありました。自分より遠い距離が強い選手なら勇気をもって近づかないといけないし、相手がファイタータイプならもっと足を使ったんです。
多くの人は手段が目的化してしまいます。ボクサーの目的は「勝つこと」なのに、「自分のスタイルで勝つこと」が目的になってしまうんです。
たしかに、自分の得意なスタイルで押し切れるなら、それに越したことはありません。しかし、いつかそれでは打開できない局面がやってきます。
「勝つこと」ができない手段なのであれば、それは変えるべきです。かつての僕は、得意だった「距離をとって戦う」ことに固執していました。でも、試合に勝つために何をすべきか、逆算して考えることができれば、自分のスタイルだって柔軟に変えることができます。
逆算思考は弱者の戦略として有効です。若い頃は自分はなんでもできるという感覚があるはずです。でも、たいてい、「自分は普通だな」と思うときがきます。とくに、目の前に圧倒的な人たちがいる場合です。そんなとき、自分が勝てるものは何か、ゴールから逆算して考えることで見つけることができます。
敗戦から2年間のブランクを経て、僕は大きく変わりました。それまでは自分の好きなスタイルで戦うだけだったのに、逆算思考で練習し、戦略をもって試合にのぞむようになったんです。
復帰後は順調に勝利を積み重ね、日本ライトフライ級のタイトルを獲得しました。そして、2015年11月28日、WBC世界ライトフライ級王者のペドロ・ゲバラと対戦することになったのです。
戦前の予想ではゲバラ選手が圧倒的に有利でした。僕よりもひと回り体が大きく、パンチも強い選手です。試合がはじまってみると、4ラウンドの時点での採点もリードされている状況でした。
しかし、僕は柔軟に戦い方を変えることができました。6ラウンドから積極的に前に出ると、以降のラウンドで着実にポイントをかせぐことに成功。そして、世界チャンピオンの座を手に入れることができたのです。
2015年11月28日、WBC世界ライトフライ級王者のペドロ・ゲバラ(メキシコ)と対戦し12回2-1(111-117、2者が115-113)の判定勝ちで初挑戦ながら王座獲得に成功
逆算思考は目標さえ決まれば、どんなことにも応用できます。心からこれがベスト、と信じられる段取りを組み上げるという作業が必要ですが、着実にこなすことができれば、ゴールにたどりつくことができます。
そして、その段取りでは目標を達成できないとわかったときは柔軟に変える。それがたとえ自分の得意なことであっても、固執しないこと。柔軟に対応するためには、自分の引き出しを多くもっておくことが大切です。
僕が会社員になったように、今、自分がいる環境を変えることはその助けになります。一つのキャリアで人生を終えることがないことは、もうみなさんもご存じのはずです。
僕が二刀流でよかったとつくづく思うのは、ボクシングだけに依存しなかったことです。自分の所属する世界での常識が、一歩外に出れば常識じゃないことなんてザラにあります。
休日に副業するのはもちろん、ボランティアでも趣味の活動でもいいと思います。会社以外の居場所をつくり、自分の引き出しを増やすことができれば、今後のキャリアを考えるうえでも役に立つと思いますね。
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