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例え下手か! 思わずツッコみたくなる仏教のお話【ぼんやり仏教⑧】

  • 執筆者の写真: 日下賢裕
    日下賢裕
  • 5 時間前
  • 読了時間: 8分

「仏教の例え話、正直なところあり得ない! って思っています」、そう話してくれた僧侶・日下賢裕(くさか・けんゆう)さん。ただ、いったんツッコんでみたら、腑に落ちるそうで……!? 今回はツッコミ芸人に多数ご登場いただき、例え話を解説します。



ボケ度100%? の仏教例え話


 仏教には、いろんな例え話(比喩)を用いた教え、というものが登場します。比喩を用いることで、教えの内容がより具体的にイメージしやすくなり、誰にでもわかりやすくなることから、ブッダも様々な比喩を用いられました。


 ところがこの例え話、一歩引いて冷静に考えてみると「それどういうシチュエーション?」ということが気になってしまうくらい、ありえない設定であることもしばしば。そうなると、そのありえない状況の方が気になってしまって、大事な教えが入ってこなくなってしまいます。しかし、そんな時に役立つのが、「ツッコミ」です。一旦、そのあり得ないシチュエーションにツッコミを入れてみることで、その例え話が伝えようとしている教えが浮き彫りになってくる――


「一体何を言っているんだコイツ……」は、と思われるかも知れませんが、物は試し、一つやってみましょう。



毒矢が刺さった男はめんどくさい男!?


“ある男が毒を塗った矢で射抜かれました。家族が医者を呼びましたが、男はこう言って治療を拒みました。


「私を射た者は誰か。弓の材質は何か。矢の羽は何の鳥のものか。それらが分かるまでは、この矢を抜かせてはならない」


結局、男はそれらの疑問が解ける前に、毒が回って死んでしまいました”


 毒矢に射抜かれたのに、どうでもよいことを気にして死んでしまうという、ちょっとしたコントのような例え話です。しかしどうでしょう、実際に毒矢に射抜かれて、誰が射たのか、弓の材質や、矢の羽は何の鳥のものかを気にするような人はいるでしょうか? この例え話には、思わずこんな風にツッコんでしまいたくなります。


「そんな奴おれへんやろ?」


 そう、皆さんの心の中にもおられるであろう、大木こだま・ひびきのひびき師匠のツッコミがぴったりですね。


 実際には、そんな奴はおれへんのです。もしいたとしたら、その人は余程、危機感のない、愚かな人だということになってしまいます。



ただごまかしながら生きている


 では、ブッダはなぜこんなありえない例えを用いたのか。本当にこれはありえない話なのでしょうか?


 実は、この例えに出てくる「毒矢に射抜かれた男」というのは、この私のこと、あるいはこれを読んでいるあなたのことを表しています。「いやいや、私はそんな愚かな人間ではないよ」と思うかもしれません。しかし、ブッダの眼差しから見れば、私たちはその「毒矢に射抜かれた男」と大差ない在り方をしているのです。


「そんな奴おれへんやろ?」と思っていたら、それは私のことでした、チクショー!


おっと、思わずコウメ太夫まで登場してしまいました。


 おふざけはさておき、毒矢に射抜かれたということは、今まさに死に瀕している状態です。私たちも、今生きていることが当たり前、明日も明後日も来年も、当然やってくると思いながら生きています。しかし実際には、死はいつ訪れるとも知れないもの。つまり、すでに私たちは毒矢が刺さったような状態に等しいのです。


 毒矢が刺さった状態でやるべきことはただ一つ、矢を抜くこと以外はありません。では、毒矢を抜くとはどういうことなのか? それは、仏教の教えに出会うべきということ。なぜなら、仏教は、誰もが抱えている「死」の問題=「死苦」を解決するための教えだからです。


 しかし、私たちは常に死に臨んでいる状態にありながら、その毒矢を抜くこと、仏教の教えを聞くことをしているでしょうか? それどころか、死を見ないようにして、あれもやらなくちゃ、これもやらなくちゃ、と目の前のことや、先の予定のことばかりを気にして生きている。こういう姿は、ブッダの目から見れば、毒矢に射抜かれながらも、些末なことを気にして、今すぐやらなければならないことを後回しにしている愚か者と同じように見える。そういった私の姿を、この例え話は教えてくれているのです。


 いかがでしょう。こうして「そんな奴おれへんやろ?」と一度ツッコミを入れてみることによって、「これは私のことだったか」と、例え話が私のための教えへと昇華する感じ、伝わりましたでしょうか?


 漫才やコントでもそうですが、ツッコミを入れるということは、常識的にはありえない状況から、一度現実に引き戻すという役割や、少し理解しづらい状況を整理したり、わかりやすくする役割があります。ですから、こうして「シチュエーションがありえなさすぎて肝心な中身が入ってこない」例え話に対して、ツッコミを入れることによって、ブッダが伝えようとしていたことを理解する手がかりが生まれてくるのです。


こんな感じで、もう一つやってみましょう。



トラブル男は甘党でもあって…


“ある時、一人の旅人が広い荒野を旅しています。するとどこからか巨象が現れ、旅人を追いかけます。巨象から逃げていると、木の根が垂れた枯井戸を見つけます。旅人はその木の根をつたって井戸の中に身を隠し、難を逃れます。


ところが、どこからともなく黒と白の二匹のネズミが現れて、旅人がしがみついている木の根をかじりだすではありませんか。そして井戸の壁には4匹の毒蛇が巣食い、さらに井戸の底には毒龍が旅人の落ちてくるのを待ち構えています。このままでは、ネズミに木の根がかじり切られ、毒龍や毒蛇のえじきとなってしまいます。旅人は恐れおののきます。


ところが、その木にはミツバチの巣があり、そこから甘い蜜が5滴、旅人の口の中に落ちてきます。旅人はその甘い蜜を舐めると夢中になってしまい、もっと蜜が落ちてこないかと、その木の根を揺さぶります。しかし、井戸の外では野火が起こり、井戸に根を垂らしている木を今にも焼こうとするのでした”


要素が詰まりすぎて、テキストで理解するのも少々苦労するような例え話ですね。旅人が、とにかく大変な目に遭っているエピソードです。この例え話には、つい、こんな風にツッコミを入れたくなります。


「なんて日だ!」


皆さんの心の中にいる、小峠さんの叫び、私にも聞こえた気がします。


 そう、旅人にとっては、とんでもない日です。巨象に追われ、枯井戸に隠れてやりすごすことができたと思ったら、そのしがみついている木の根は二匹の鼠にかじられ、さらに井戸の壁からは毒蛇が、井戸の底には毒竜が、ハチミツが口の中に落ちてきて、ちょっとラッキーとか思っている間にも鼠は木の根を齧り続け、さらに外では野火まで発生して、どうにも助かりようのない、そんな状況に追い込まれている。コントのシチュエーションとしてもあり得ないような、そんな例え話です。こんな状況には、「なんて日だ!」としかツッコミも入れようがありません。



いつだって逃げ場なし


 では、なぜブッダはこんなありえない状況を例え話として用いたのか。本当にこんなシチュエーションはありえないのでしょうか。


 実は、「なんて日だ!」と叫びたくなるほどの状況が、私たちの毎日なのです。


 この例え話にでてくる「巨象」は、「無常」を表しています。「無常」とは、常に変化の中に私たちは存在しているということであり、私たちは、常に変化に追われ、変わらずにいられないということを表しています。そこから逃げ込んだ先の「井戸」が人生、「木の根」は寿命を表し、その寿命を齧る黒と白の鼠は、夜と昼、時間を例えたもの。そして毒蛇や毒竜はそのまま死を表しています。ふいに毒蛇に噛まれて死んでしまうように、私たちもまた、突然の事故や病気で、いつ命が終わるともしれません。


 あるいは、時間に寿命が齧られ、それが尽きれば、毒竜の口の中へ真っ逆さまでジ・エンド。そんな中でも、美味しい食べ物や推し活といったという喜びを満たしてくれる「ハチミツ」のようなものがあると、それに夢中になってしまう。私たちが生きている「今日」も、実は、この旅人が陥っている状態と何ら変わりはないのです。


 私たちは、どうあっても「死」を迎えなければならない、まさに「一切皆苦」の存在であることを教えてくれているのが、この例え話であり、その「一切皆苦」の状態を離れていくための教えこそ仏教であり、それを求めていってほしいという願いが、このようなありえないシチュエーションの例え話を生んだと考えることができるのです。


 この比喩もまた、一度ツッコミを入れることによって、ありえない話から、私の現実が説かれた教えであったと聞いていくことができるようになりました。



 ツッコミで味わう仏教の例え話、いかがでしたでしょうか。他にも様々な例え話が仏教にはありますので、「そんな話ありえない!」と思っても、一度ツッコミを入れてみることによって、きっと理解が深まるはずです。ぜひ一度、お試しくださいませ。



今日の一筆




【今日学んだお坊さんのことば辞典】

・死苦(しく)

死ぬ苦しみ。人生で避けることのできない四苦(人間はだれしも、生まれて、老いて、病気になって、死ぬ)の一つ。


・無常(むじょう)

この世は常に変化し続けており、どんな人もその変化に追われ、変わらずにいられないことを意味している。


・一切皆苦(いっさいかいく)

すべてのことは思い通りに行かず、自分に起こるすべてのことは苦しみにつながっている。


日下賢裕(くさか・けんゆう)

1979年生まれ。石川県にある、浄土真宗本願寺派の白鳳凰山恩栄寺(はくほうおうざん おんえいじ)の住職。インターネット寺院「彼岸寺」の代表も務めている。法話は時事ネタを扱うことが多い。


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