推しの結婚、好きな番組の放送終了など、ロスを悲しむ方に朗報です。僧侶・日下賢裕(くさか・けんゆう)さんが自らのロス体験を振り返りながら、もしブッダに相談できたら…と今回も妄想をふくらませました。その妄想と思考はまさかの方向に進んで……!?
本当は喜べない推しの結婚
ある日、妻が妙に元気がありません。なぜ落ち込んでいるのだろうかと様子を見ていましたが、ネットニュースを見てその原因がわかりました。それは、妻の推しの俳優である高橋一生さんが結婚されたというニュースでした。
推しの結婚。これは推しを持つ人にとって重大な問題です。本来、結婚はおめでたい、喜ばしい出来事です。しかし、推しの結婚となると少々話は複雑になります。めでたいし、喜ばしいことであることは間違いない、わかっているのですが、心の底から喜べない自分がいる。それどころか、なぜか喪失感のようなものさえ感じてしまう。
もちろん、自分が推しとなんらか親しい関係になるなんてことがあるわけがないとわかっているし、推しがいなくなるわけでもなく、自分が大切なものを失ったわけでもない。しかし、それでもなぜか感じてしまう喪失感。そもそも遠い存在であったものが、さらに手の届かない遠くへといってしまうかのような物悲しさ……きっと皆さんも、推しの結婚から、このような複雑な感情を抱いたことがあるのではないでしょうか。
かくいう私も、以前、そのような絶望にも似た、喪失感を味わった経験があります。それは、女優の新垣結衣さんと星野源さんの結婚。人気を博したドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』でも共演された二人が、ドラマさながらに結婚されたというニュースは「逃げ恥」ファンからも大いに祝福されました。が、私の心は上述したような、非常に複雑な感情に襲われました。
今回は、私のそんな実体験を元に、仏教はなにか解決策を与えてくれないだろうか、と考えてみたいと思います。
仏教は「推すな推すな」?
推しの結婚による「ロス」。この苦しみに対して、仏教はどのようなことを教えてくれるでしょうか。
まずは、「推し」について仏教ではどう見るか、というところから考えを始めてみましょう。もし、私が「推しの結婚」に悩んでブッダに相談したならば……きっとブッダは、そもそも「推し」とは「執着」であると喝破されるに違いありません。
「執着」とは、物事にとらわれる心のこと。依存と言い換えても良いかもしれません。私たちは、自分の身近にあるものに、常に執着しています。家族であったり、財産であったり、仕事であったり、所有物であったり。どれも大切なものであり、失いたくない、手放したくないものばかりです。しかし、「愛別離苦」という言葉もある通り、その「大切である」「失いたくない」という思い=「執着」が強ければ強いほど、それを失ったときの苦しみ=「ロス」は大きくなってしまいます。
であれば、ロスを味わわないためには、「執着」から離れれば良いわけです。そもそも仏教は諸行無常を説く教え。今自分の身近にあるものも、それは今たまたま縁あってそばにあるものに過ぎず、いずれはその状態が変化する、つまり手元から離れていく、手放さなければならない時がやってくると見ていきます。あるいは、そもそも自分の所有のように思っていたことが間違いであるとも言えるかもしれません。そのように見ていければ、「執着」の心は起こりませんし、「執着」がなければ「ロス」に苦しむこともなくなるでしょう。
つまり、仏教は「推すな推すな」の教えなのです。
「推し」を持つこと。それは「執着」そのものであり、「苦」を内包しているものでもある。ならば、「推し」を持たないことこそが、「執着」から離れ、喪失という「苦」から開放される道なのです。
しかし、「推し」は私達の人生に彩りを与えてくれるものであり、生きる原動力となるものと言っても大袈裟ではないでしょう。ですから、「推し」を持たずに生きるという提案は、あまり現実的ではないように思えます。故・上島竜兵さんが「押すな押すな」と言ったならば押してしまうのが人間の性であるように、ブッダに「推すな推すな」と言われても、「推し」てしまうのが私たちの偽らざる姿です。
では、やはり「推し」を持ってしまえば、喪失時の苦しみも内包し続け、そこから解放されることはないのでしょうか?
私は星野源である!?
上述した通り、新垣結衣さんの結婚の報に触れて私は大きな喪失を抱えたわけですが、そんな私に乗り越えるための方向性を与えてくれたのは、やはり仏教でした。
仏教は、ざっくり言えばさとりを目指すことを目的とした教えです。そしてさとりの境地に至るということは、「自他一如」という言葉でも表現されるように、私と他者との境界が吹き消え、自分と他者の区別がない状態であるとも言われます。
しかし私たちの現実は、「私はわたし」と自己の存在を揺るぎないものとして理解し、他者と区別をして生きています。自分の目の前にいる他人と「一如」、つまり境界がなく一つである、なんてことは思えません。けれどその理解さえも実は執着の為せる業。「これは自分である」と自己に執着することによって、他者との境界を自ら生み出している。しかし、「縁起」という関係性に依って成り立ち、この世界の水や空気、食物を摂取しながら新陳代謝を繰り返し、常に変化し続けて、たまたま今も「私」という存在が成り立っているに過ぎません。
浄土真宗の開祖・親鸞の言葉には「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」とありますが、あらゆる命は輪廻を繰り返す中で父や母、兄弟であったかもしれない、それほど自分と他者とは切り離すことができない存在であることが示唆されています。
ならば、もしさとりの境地に至れば、そう、私はすなわち星野源でもあると言っても過言ではない。私がすなわち星野源であるということは、もうみなまで言う必要はありませんね!
ただし、ここで一つ大きな問題があります。それは、残念なことにまだ私自身がさとりの境地に至ってはいないこと……それどころか、私自身に執着するだけではなく、新垣結衣さんにも執着し、さらに星野源さんに嫉妬し、こんな煩悩丸出しの文章を書いているわけですから、さとりの境地に至るには程遠い身であるのが悲しい現実です。
しかしちょっと強引ですが、見方を変えれば、私のこのキモい妄想が、さとりを目指そうとする菩提心へと昇華しているとも言えなくもないわけで……。もしかすると推しの結婚という苦悩との出会いによって、自他一如のさとりの境地を目指すためのモチベーションともなり得るのではないでしょうか。
「推し」を持つことは生きる原動力となると同時に「苦」を抱えることでもある。「苦」に出会うことは、決して望ましいことではないけれど、その「苦」によって仏道へのきっかけが開かれてくると考えるならば、「推し」は私たちに仏教と出会うチャンスも与えてくれるかもしれません。
皆様もどうぞ存分に「推し」ライフを楽しみつつ、その傍らに、仏教を置いてみてはいかがでしょうか。
今日の一筆
【今日学んだお坊さんのことば辞典】
・自他一如(じたいちにょ)
自分と他者は密接にかかわり合うものであり、自他の区別をせず一つのものと見ていく仏のさとりの智慧を表す言葉
・縁起(えんぎ)
物事が生じる直接の力である因と、それを助ける間接の条件である縁。この二つの働きによってすべての物事は起こるということ
日下賢裕(くさか・けんゆう)
1979年生まれ。石川県にある、浄土真宗本願寺派の白鳳凰山恩栄寺(はくほうおうざん おんえいじ)の住職。インターネット寺院「彼岸寺」の代表も務めている。法話は時事ネタを扱うことが多い。
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