• 奥成洋輔

セガサターンとふり返るあの時代⑤ セガサターンが残したもの


『サクラ大戦2』(ドリームキャスト版)

(C)SEGA


ソニーの「プレイステーション」とセガの「セガサターン」による「次世代ゲーム機戦争」がついに決着。敗北を喫したセガサターンはその道をドリームキャストへゆずることになった。その日を迎えたとき、セガサターンはセガに、セガファンにいったい何を残したのか? 現役セガ社員の奥成洋輔さんの執筆で当時をふり返る本連載、ついに最終回。



弱点と言われたRPGのリリースが少なかったワケ


 セガハードで初の国内500万台を達成したセガサターンは、前年末の大作RPGラッシュ後、1998年に入ってからも強力なタイトルが続々とリリースされた。チュンソフトの完全新作サウンドノベル『街』、シリーズ3作目にしてRPGとなった『AZEL ~パンツァードラグーンRPG~』、ソニックチームの新作3Dアクション『バーニングレンジャー』。


 さらに『センチメンタルグラフティ』『Piaキャロットへようこそ!!』に『EVE The Lost One』といった人気美少女アドベンチャー、その他『仙窟活龍大戦カオスシード』や『ザ ハウス オブ ザ デッド』などなど。


『AZEL ~パンツァードラグーンRPG~』(東京ゲームショウ '97春/画像提供:セガ)


 しかし年末商戦を制し、国内1000万台出荷とセガサターンにダブルスコアの差を付けたプレイステーションの盛り上がりは、それをはるかに上回った。カプコンの『バイオハザード2』、スクウェアの『ゼノギアス』、そして『パラサイト・イヴ』など、ゲームファンの話題もほぼこれらのタイトルで占められていた。


 なお『バイオハザード2』は、前作が『パンツァードラグーンツヴァイ』の発売タイミングと同じ1996年春であり、ハード初期を代表するオリジナルタイトルが、2度にわたって直接対決している。

 

 前作から大幅にスケールアップし、人気を確固たるものにした『バイオハザード2』は、スクラップ&ビルドを重ね、当時としては長い約2年もの開発期間についても語られることが多い。一方で『AZEL』は、連載第2回で触れたように初代『パンツァードラグーン』の発売直後に開発がスタートしており、本来であれば『ツヴァイ』発売から大きく間を空けずに発売する予定だったが3年が経っていた。


 この年末にニンテンドウ64で発売され、歴史的名作となるニンテンドウ64の『ゼルダの伝説 時のオカリナ』に先駆けている、完全3D化された街の表現など、作り手の志の高さによる苦労も大きかったが、これだけの開発遅延は過去にないものだった。2作とも映画ばりのストーリーや演出を取り入れた大作として発売されたが、明暗が分かれた。


 ちなみにこの『AZEL』と並行しつつ、さらに開発が遅延していたもう一つの大型RPGプロジェクトが「プロジェクト・バークレイ」こと後の『シェンムー』だ。こちらは結局セガサターンでの開発継続を断念することになる。


『バーニングレンジャー』(東京ゲームショウ '97秋、檀上は光吉猛修氏、幡谷尚史氏/画像提供:セガ)


 人気ジャンルであるRPGの少なさが、セガサターンの弱点として語られることがあるが、このように開発はされていてもスケジュールの遅延が続いて、結果として勝機を逃している。これらの話は他社の『グランディア』などでも聞かれており、また発売はされたものの、ファンの期待とは大きく異なるものになっていた『シャイニング・ウィズダム』や『エアーズアドベンチャー』なども含めると、32bit時代のRPGを作るうえでの落としどころの難しさもあったのかもしれない。


 なおニンテンドウ64は、国内で100万台を突破するも計画を下回っていたが、海外では900万台近くまで伸びており、また国内もゲームボーイが『ポケットモンスター』の大ブームで息を吹き返し、新たに400万台以上が出荷されていた。この勢いを見て任天堂は、年末には改良型「ゲームボーイカラー」を発売するに至る。


 ただし、こと据え置き型の家庭用ゲーム機による次世代ゲーム機戦争は、完全に決着が付いてしまった。



セガサターンの継続を困難にさせた、ハードの製造コスト問題


 年末に続き年始でも立て直しを図れなかったセガサターンは、専門誌で大きく扱われる人気作であっても受注が10万本を切るような状況に至り、3年間で築いた500万台の稼働率は大幅に下がっているようだった。


 それでも春には少し持ち直し、待望の続編『サクラ大戦2』と『スーパーロボット大戦F完結編』『ガングリフォンII』や『ヴァンパイアセイヴァー』、そして新作『機動戦士ガンダム ギレンの野望』と大型タイトル発売が続いたが、これがセガサターンの最後の盛り上がりとなった。


 特に『サクラ大戦2』は、50万本のヒットだった前作を越えるという高いミッションの下、すべての面でのクオリティーアップを行ったタイトルだ。新たに加わったスタッフの中にはNECで「PC-FX」を看取ったスタッフもいて、彼のおかげでセガは「プロダクションI.G」に出会えている。


 当時『機動警察パトレイバー』や『攻殻機動隊』を手掛け、最も人気の高かったアニメ制作会社との出会いが、『サクラ大戦』のムービークオリティーをアップさせていく。ただし本作の販売本数は、結局前作とほぼ同数の実績となり、販売の限界、ハードウェアの限界を示してしまった。


『サクラ大戦2』(東京ゲームショウ '98春/画像提供:セガ)


 また、セガがセガサターンの継続を困難にさせたのは、ハードの製造コストの問題もあった。セガサターンの販売価格は当初4万9800円で発表されている。これは1991年に発売したメガドライブの拡張ユニット「メガCD」と同価格であり、1年先行していた3DOの販売価格5万4800円よりも5000円安い価格であるため、その当時としては一見妥当な価格にも見えた。


 ところが、プレイステーションが3万9800円で発売するという発表があると、「期間限定で5000円引きの4万4800円」と告知を加え、店頭実売価格はほぼ同じとなるかたちで発売した。

(余談だが、プレイステーションは発売以来長らく定価販売を小売店に義務付けていたが、この年の1月に公正取引委員会から独占禁止法違反で排除勧告を受け、2年半後の2001年に応諾する。それまでの期間は長らく定価販売が続いていた)。


 発売後に両社が接戦となると、セガサターンは当初の告知期間が過ぎても価格は変えられないどころか、北米のプレイステーションの価格がさらに安い299ドルという発表もあって、全世界規模でのハードの値下げ合戦が始まってしまった。


 セガサターンの最終値下げ価格は1997年の廉価版セガサターンが発売されたときの2万円だったが、ハードの構造自体はほとんど変わっていなかったと言われている。元々売りたかった値段の5分の2の価格で、一体1台あたりどのくらいの赤字になっていたのか。


 かつてアメリカで前世代機・メガドライブが勝負に出た1991年の年末商戦時、キラーソフトの『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』が予想をさらに超えるヒットとなり100万台の追加製造を行った。通常の船便ではとても間に合わないため、セガは台湾などで作ったハードを東京から1カ月の間空輸し続けて間に合わせた。輸送料を考えれば大赤字である。


 ハードを普及させるチャンスには必要なことだった。結果としてメガドライブはその冬だけで300万台を売り切り、北米でスーパーファミコンと互角の勝負をすることができた。


 しかし今回は規模も異なり、相手もタイミングも悪かった。売れているのに本体を半年ごとに値下げするスピードの早さはセガにはまったく想定外の出来事だっただろう。セガはハードを完全外注工場生産で扱うファブレスメーカーなので、本来製造に関するリスクは少ないはずであった。


 それでもリスクの高い自社生産・自社開発のソニーに敗れたのは、まずプレイステーションのコストダウンのしやすい設計、そして巨額の赤字にも耐えられる資本力の差であったようにも思える。


 またタイミングも悪かった。セガサターンが最も好調だった1995年は、バブル崩壊後の円高が最高潮に達したときだった。数年前まで160円だった1ドルが80円を切った年である。海外販売を収益の柱としていたセガは、年末商戦で収益の悪化を恐れてハードを欠品させてしまった。もしセガが1991年のときと同じく、赤字を出してもセガサターンを限界まで出荷していたら、もしかしたら1996年以降の風景は違っていたかもしれない。



セガサターンからドリームキャストへ!


 セガは、もう一度勝負を挑むことを選ぶ。


 新たな次世代ハード「ドリームキャスト」の始まりはこの年の始め、セガの親会社であったCSKの賀詞交歓会で、大川会長の口から次世代機について触れられたところから始まる。昨秋の日本経済新聞のスクープを裏付けるかたちで、会場ではマイクロソフトのビル・ゲイツからのビデオメッセージも公開された。これに続き、2月にはセガの社長に元ホンダの入交氏が就任した。新体制下で最初に発表されたニュースは、北米でのセガサターン撤退の発表であった。


 5月21日、「セガは、倒れたままなのか?」という刺激的なコピーの新聞広告とともに、セガの新ハード「ドリームキャスト」のメディア・流通向け発表会が行われる。ゲームファンはテレビのニュースや、ゲーム情報に力を入れていた深夜番組「トゥナイト2」で会場の雰囲気を味わった。


 タイトルは一切発表にならなかったものの、オリジナルの技術デモとして、入交社長の顔を3Dポリゴンで表現したソフトウェアを実機で操作することができた。『スーパーマリオ64』のタイトル画面との比較デモにも見えるこのプレゼンは、セガサターンはもちろん、プレイステーションやニンテンドウ64とは比較にならない「次世代」ハードの片鱗がうかがえるものであった。


 翌22日の新聞には「11月X日 逆襲へ。Dreamcast」という広告が掲載されたが、同日公開された98年3月期決算では、セガはついに赤字転落する。新たな次世代機は、もはやセガにとっても会社の生命線を繋ぐための背水の陣でもあった。


ドリームキャスト発表会(1998年5月21日/画像提供:セガ)


 なおプレイステーションは牽制として、ドリームキャスト発表直前に『ファイナルファンタジーVIII』の発売を発表。新作アニメを眺めながらストーリーを変化させていく「やるドラ」シリーズ『ダブルキャスト』や『XI [sai]』などがソニー自身から発売され、ゲームジャンルの幅やファン層をさらに広げていった。


 その後も夏に『ブレイヴフェンサー 武蔵伝』『私立ジャスティス学園』『スターオーシャン セカンドストーリー』『SDガンダム GGENERATION』など大手メーカーによるヒット作が続く。秋も『いただきストリート ゴージャスキング』『ビートマニア』『火星物語』などあらゆる方向を向いたタイトルが登場する中で、ついにあの『メタルギアソリッド』が発売され、発売から4年を過ぎたプレイステーションの表現能力の限界をさらに引き上げた。

 

 セガサターンはドリームキャスト発表後、勢いのない半年を過ごした。『DEEP FEAR』や『バッケンローダー』『シャイニング・フォースⅢシナリオ3 氷壁の邪神宮』などの新作は出ていたが、セガの内作タイトル供給は完全に止まっており、セガとエニックスの共同開発タイトル『日本代表チームの監督になろう!』といった意欲作も発売されるものの、サードパーティーも昨年から売れ行きの鈍化したセガサターン向けのタイトル供給を減らしていたので、市場は急速にしぼんでいった。


 セガは昨年末から続く「せがた三四郎」のCMでこれらを宣伝した一方で、7月からは並行してあの「湯川専務」のCMをスタートさせる。実在のセガの専務を主人公にして、「セガなんてだっせーよな!」「プレステのほうが面白いよな!」という町の子供の声にガッカリする自虐コマーシャルは、ファンにとっても社員にとっても衝撃的なものだった。ストーリー仕立てになっていたCMは、最終的に11月に発売されるドリームキャストへと期待を繋げる連作となっており、「せがた三四郎」に続きヒットCMとなった。


 ドリームキャストのプロモーションや企画・イベントはさらに続く。まず液晶画面付きメモリーカード「ビジュアルメモリ」を使ったミニゲーム機『あつめてゴジラ 怪獣大集合』が本体に先駆け7月に発売、8月には待望のソニック新作『ソニックアドベンチャー』のファン向け発表会が行われた。ソニックのデザインはドリームキャスト向けに大きく変更され、現在のモダンソニックの姿はここから始まった。


『ソニックアドベンチャー』(東京ゲームショウ '98秋/画像提供:セガ)


 9月のアミューズメントマシンショーにはドリームキャスト互換基板「NAOMI」が発表された。アーケードのハイエンドタイトルを、いかに工夫して性能の劣る家庭用ゲーム機に移植するかがこれまでの課題だったのだが、NAOMIはアーケードのハイエンド機とほぼ互角の性能を持っていながら、ほぼそのままドリームキャストへ移植できることが売りであった。


 同時に、長らくセガサターンの発売予定ラインナップに並んでいながら続報のなかった『バーチャファイター3』がドリームキャスト向けに変更される告知も同時期に行われた。そして翌10月の秋の東京ゲームショウにて、ドリームキャストのゲームの試遊が体験できるようになり、ついに11月27日、無事発売となった。


ドリームキャスト発売(1998年11月27日秋葉原の模様/画像提供:セガ)


 歩留まりも心配された中でのドリームキャストの船出は、なんとか年内50万台の出荷を達成、『バーチャファイター3tb』を同時発売、『ソニックアドベンチャー』を翌12月に発売した。なおソニックはコンシューマ開発部署の総力を結集して間に合わせた結果30万本のヒット作となっている。


 12月にはファンを招待して『シェンムー』の発表会を開催、後に「オープンワールド」と呼ばれることになる、すべてを3Dで構築し自由に動き回れる箱庭世界を世界で初めて実現した。


『シェンムー』発表会(1998年12月/画像提供:セガ)



セガサターンが残したもの


 我が世の春を謳歌するプレイステーションは、ライバルを気にすることもなく『エアガイツ』『チョコボの不思議なダンジョン2』『幻想水滸伝II』に『ストリートファイターZERO3』『R-TYPEΔ』『クラッシュ・バンディクー3』など定番やいろいろなファンに向けた人気タイトルがリリースされていた。


 セガサターンは話題作のない年末の後、1999年もソフトはリリースされていくが、その数はわずかに17本。かろうじて200本以上のタイトルが発売された1998年の10分の1以下だ。


 この1998年は日本国内のプレイステーションの発売タイトル数でいうと歴代3位となる600本近いタイトル数が発売されており、単独で600本を越える翌1999年、1と2を足すとさらに上となる2000年のピークまで、完全に上り調子であった。ソニー(コンピュータエンタテインメント)が連結売上高で初めて任天堂を抜いたのもこの頃だ。


 かつてスーパーファミコンでもピーク時のタイトル数は370程度。セガサターンは前年の350が最高だった。次世代ハード戦争を制したプレイステーションソフトは、供給量が加速化。すでにお茶の間のテレビの前にはセガサターンの姿はなかった。


 また、この年のセガは、5月に行われた決算での赤字転落に伴う会社の経営体制の一新と、セガサターンからドリームキャストへのハード移行に合わせ、開発内でも大きな組織変更や雇用制度の改定が行われた。


 その結果、セガサターンの立ち上げのためにアーケード開発部署から移ってきたベテランスタッフを中心に、多くの開発メンバーが独立、仲間同士で集まって新会社を設立したり、または他社へと移っていった。ああ、本当に俺たちのセガサターンが終わったんだという喪失感が、ファンだけでなく開発スタッフの中にもあったのだ。セガとしてはおそらく1986年以来の大量離職だったと思われる。


 しかしセガの名作タイトルがむしろ1986年以降若いスタッフによって躍進したときのように、燃え尽きたセガサターンの灰は次世代のスタッフたちが花を咲かせるための土壌となるのであった。

(終)



 連載「セガサターンとふり返るあの時代」はここで一旦終了となりますが、機会があればまたこの先、あるいは過去についても語れればと思います。最後までありがとうございました。

奥成洋輔(おくなり・ようすけ)

1971年生まれ。1994年に株式会社セガ・エンタープライゼス(現・セガ)入社。2000年DC『エターナルアルカディア』でアシスタントプロデューサーを担当、2004年にPS2『サクラ大戦V EPISODE 0 ~荒野のサムライ娘~』を初プロデュース。2005年以降旧作の復刻を数多く手掛ける。主な作品にニンテンドー3DS「セガ3D復刻プロジェクト」シリーズ、『メガドライブミニ』『ゲームギアミクロ』など。

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